今治市大三島町宮浦は愛媛県の最北部大三島の中央西部に位置する。 伊予水軍(村上水軍)の活躍した戦国時代も終わり、宮浦村の江戸期は松山藩領であった。 村高は「慶安郷村数帳」では324石余、「元禄村浦記」でも324石余。「天保郷帳」689石余、「旧高旧領」691石余。村内には広大な大山祇神社の境内と、同社の門前町と、宮浦本川に沿う水田地帯から成り立っていた。大山祇神社は武門の神・海神をして祀られ、伊予水軍の発展により栄えていた。 「越智島旧記」によると享保年間(1716〜36)の家数250・人数1,143とある。 藩主は参勤交代の際には必ず大三島宮(大山祇神社)に参拝し、伝統深い三島宮の信仰と海上交通を利用し、春の大祭を中心に大三島市を開き、種々の興行や富くじなどを藩の直営で行ったので、近世の宮浦は大山祇神社の門前町として発展、入港する船舶や参詣者も多く、例大祭では港付近は満艦飾の漁船で埋まった。 そして恒久的繁栄をはかるため新地町の開発を計画し、 安永4年(1775)大山祇神社の横を流れる河川の川床を埋め立てて、川筋を変更して今の参道を完成させ、新しい参道沿いに建てられる町家に補助金「御垂銀」を与え、安永9年(1780)には38軒が進出し、門前町として益々の発展を見た。しかし水資源に恵まれながらも漁業は振るわず、漁家も殆ど存在しなかった。 江戸期以降の産業は木綿織や生石灰の製造・製塩などが行われていたが、大正期に入ると甘藷・除虫菊・柑橘などの栽培が盛んになった。昭和に入り柑橘類の栽培が盛んになったが、今では後継者不足で、斜面を利用した柑橘類栽培地は放置されて、山林に戻りつつある。 宮浦港には大正元年から汽船が就航し、昭和26年には港務所も完成、その後大型フェリーや水中翼船・高速艇などが寄港する観光港となり、港から大山祇神社までの参道は土産物店・飲食店等が並び参詣客などで大変賑わった。 しかし、1999年中国地方と四国を結ぶ3ッ目の「しまなみ海道」が開通したことにより、状況が一変し、しまなみ海道の自動車道の利用で宮浦港利用者が激減してしまった。 今、宮浦港の立派な桟橋から大山祇神社までの参道を歩くと、かっての賑わった町並をそのまま残すが、殆どの店が営業を辞めていて、中には無住になった旧商家も見られる寂れようだ。交通手段が変わると短時間でこれ程の寂れ方をするのかと驚く町並だった。因みに大山祇神社の賑わいは自動車道開通により、観光バスをはじめとして各種の交通手段により、以前よりはるかに多くの参詣客で賑わっている皮肉な現象を目の辺りにすることができる。 愛媛県の歴史散歩 山川出版社 愛媛県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
大三島町宮浦の町並 |
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