今治市波止浜(ハシハマ)は愛媛県陸地部の最北端に位置し、風待ち・潮待ちの港として天然の良港であった。 江戸期を通じて松山藩領であったが、郷帳類には村名が見えず、波方村の中にできた枝村である。波止浜村が正式に分村したのは明治12年である。 明治初年の「地理図誌稿」には波止町として、「東西4町20間、南北13町20間、三方を山に囲まれ、東北に来島があり、自然の港湾をなし、塩田40余り有り、船舶の便あり、四方より商客来泊し、商業を専業とする者多く、人家軒を並べ一市街をなし、繁栄の地なり」とある。 天然の良港だったこの地の筥潟湾(はこがた)(波止浜湾)の干潟に、天和3年(1683)波方村長谷の海岸から高部村先まで堤防が築かれ、塩田33軒が誕生した。塩田開発に伴って町が造られた。塩浜を浜方、町を町方と称した。その後も貞享4年(1687)から元禄4年(1691)までに塩田10軒を増築し、その周囲に新田が造られた。 塩田はその後も文政年間(1818〜30)・天保5年(1834)と増設され計42浜、約60町歩の大塩田となった。 波止浜は松山藩の在町的な存在で、陸路の終着として、塩の生産だけでなく物資の集散地としても栄え、問屋が並び、享保18年(1733)には湯女も公許されている。 宇和島藩の参勤交代の発着の港として利用されたこともあった。 元禄13年(1700)の家数97であった。元文5年(1740)波止町分の家数294・人数1,112・船数80艘、また波止浜分の人数は473となっている。しかしその後宝暦10年(1776)家数279・人数1,038、安永5年(1776)家数285・人数1,058と衰退ないし停滞しているのは塩業不況の影響と思われる。しかし弘化2年(1845)には、北国の塩廻船が40艘も入津し、家数385・人数1,434と大幅に増加している。 活況を示していた塩の生産も、第2次大戦後に塩田から流下式になり、生産は一気に倍増しますが、それも束の間で、安価なイオン交換による製塩にとって代わられ、昭和34年に遂に塩田は廃止されてしまった。 今この波止浜訪ねると、塩田跡はゴルフ場・自動車教習所・造船所やスーパーとなり昔の姿を見ることは出来ないが、当時賑わっていた町場の問屋や商家などの大型建物は残っている。しかし豪勢な建物も住む人が無くなったのか、ツタに覆われて哀れを誘っている姿が印象に残る。 地内に大型の造船所が複数あり大きなクレーンが動いていたが、造船ブームに沸いた頃賑わったであろう飲食街も、ブームが去ってこちらも哀れを誘う光景が展開していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
波止浜の町並み |
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