池田町の町並み 
本町通り・中通り
地図


本町通りの町並み
  池田町は徳島県の最西部の町である。
池田は小笠原、その後、白地城に拠った大西氏が天正5年(1577)、長曽我部元親により滅ぼされるまでの約350年間は、小笠原氏・大西氏による城下町池田の時代であった。長曽我部元親は白地城を阿波・讃岐侵攻の拠点とするため、大規模な築城工事を行い、本丸は60間×33間、二の丸は120間×65間、その他、長月丸などの壮大な規模を持つ軍府とした。元親は10年の歳月をかけて四国統一を、天正13年(1585)に成し遂げたが、その年の秋には、豊臣秀吉の四国征伐の大軍の前に土佐に退かねばならなかった。
変わって秀吉の家来 蜂須賀家政が徳島に入府、初代池田城番に牛田捜部尉が任命された。その後、中村右近大夫重勝が城番となったが、幕府の一国一城令により、寛永15年(1638)に廃城となった。そしてこの大西城に代わる陣屋が池田の宗安に造られた。現在の池田幼稚園はその跡地に建てられたものである。
藩主蜂須賀家政は特産物の保護奨励に意を注ぎ、新田開発にも力を入れて藩財政の収入増加をはかった。これは関ヶ原の戦いの後も代わらなかった藩主蜂須賀家政によって続けられた。
平地には藍作、海岸では製塩、山間では煙草、木材など土地に即した産業指導を行った。池田には煙草を奨励し増産に努めた。また藩は商工業者に特恵的優遇策をとったので、商人、職人などの町人層が年とともに、勢力を伸ばしていった。
池田では東西に延びる伊予街道沿いに多くの商人が集まり、特に東よりに密集していた。小笠原氏の白地築城以来約440年間育てられた商家が、明暦〜万治(1655〜61)の頃、このような町並みにまで発展したのである。間口が狭く、奥行きの深い町割は計画的に作られた町の特徴を現している。今から330年前にすでに現在の池田の町並みがあった。
三好地方の山間地域では、煙草が格好の特産物であった。山で栽培された煙草葉は、在郷町池田の商人に売られ、刻み煙草として徳島、讃岐、大坂方面に売り出した。
寛政12年(1800)中村武右衛門は機械による刻みの剪台を発明し、煙草の量産が可能になった。北前船によって阪神、瀬戸内、日本海沿岸から北海道まで売りさばかれた。こうして江戸末期には池田の町の全戸数の半数以上が煙草産業に係ったと思われる。
煙草産業は、明治に入って益々活況を示した。葉煙草専売法(31年1月施行)実施の間近い明治27年12月末では、池田の煙草産業は工場数33、工員総数2044人、村全体の約半数は煙草産業に従事したわけである。
更に完全専売制実施の直前、明治36年12月末では工場数61と飛躍し、池田は徳島をしのくほどの県下有数の、商工都市となったのである。
しかし、明治37年に煙草専売法が成立し施行され、大部分の工場はその躍進を止め、煙草製造業者は姿を消した。
今も本町筋や町内各所に残る重厚な建物に上げられた卯建は、当時の繁栄の象徴として、当時の池田を偲ばせている。卯建の上がった家屋は殆どが明治20年代から30年代前期の建築である。
池田にとって明治20年代は、煙草産業の躍進期、30年代は全盛期であった。卯建も実用的なものから、事業の隆盛を反映したシンボルとして構えられた。池田の重厚な商家の建物は、袖卯建の上がった切り妻造り、本瓦葺、平入り、白または黒漆喰塗り込め壁で中二階、格子、出格子であり、伊予街道沿いに軒を連ねていた。
町並み指数 60
参考文献    
  徳島県の歴史散歩  山川出版社  湯浅良幸  1995年
  うだつ  調査報告書  池田町教育委員会
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和61年

本町通りの町並み

本町通りの町並み

中通りの町並み

本町通りの町並み

本町通りの町並み

並んだ卯建(鬼瓦が特徴)
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