日和佐町はうみがめの産卵地として有名で、その大浜海岸は国の天然記念物に指定されている。日和佐町は薬王寺の門前町として発達したところと、今回訪問した日和佐港の周辺で漁業を主とした町があり、今回はその後者を訪ねた。 江戸時代には徳島藩領で終始している。古くから沿岸漁業が発達し、海藻の採取、魚介類の磯漁、沖合いの一本釣り、網漁などによって生活が支えられていた。漁民には藩から加子(水夫)役が課せられるとともに、藩主の参勤交代時には徴発をうけていた。その数は御用加子数は64人とあるが、その予備として自然加子として浦人150程度が指定されていた。藩では寛永年間(1624〜44)より漁民の漁業収入に対して口銀(税)を各浦ごとに課していた。 弘化2年から3年(1845〜46)にかけてのものである海部郡再廻帳によると日和佐浦の漁獲物は、青海苔・ボラ・タイ・海老・カツオ・サバ・ムロアジ・アジ・ムツ・ブリ・ナマス・ハマチ・ウルメ・イワシ・サヨリ・若和布・荒和布・フノリ・ヒジキなどが採れていた。 明暦4年(1658)の棟付帳では日和佐浦の家数269・人数688。奥河内の家数96・人数203とあり、寛文4年(1664)の郷村高辻帳では奥河内村は日和佐浦の枝村として記載されている。文化4年(1807)には海部郡の郡代役所が海部の鞆浦から日和佐に移され、それより明治に至る約60年間は日和佐は海部郡の政治・経済・文化の中心となっていた。その場所は現在の日和佐小学校の前の辺りである。 日和佐浦里の廻船業者は木船・炭船などとして大坂市場をはじめ和泉国堺・摂津国兵庫のどにその持船を往来させていたが、その積荷からしてこの地が木材や薪の供給地だったと考えられる。 町並も日和佐川北岸に沿った日和佐浦では漁師町の様相を示すが。日和佐川北岸から僅か100m程離れた旧日和佐小野線に沿った奥河内では商家の建物が並んでいた。 徳島県のこの地方特有のぶっちょう造りも殆ど見られないのも特徴の一つだろう。格子・出格子が多く、海岸近くだから板張りの町並だった。 この日和佐浦集落の東側が大浜海岸で、うみがめの産卵場所で海岸自体が国の天然記念物となっている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名徳島県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 |
奥河内の町並 旧街道筋では商家の建物だった |
奥河内の町並 旧街道筋では商家の建物だった |
奥河内の町並 旧街道筋では商家の建物だった。 これだけ軒を揃えた町並も珍しい |
奥河内の町並 |
奥河内の町並 |
日和佐浦の町並 |
日和佐浦の町並 |
日和佐浦の町並 |
奥河内の町並 旧街道筋では商家の建物だった。右側奥の妻入りの 建物はお風呂屋さん |
奥河内の町並 |