瀬戸内海に面する引田町は香川県の一番西端にある小さな町だ。引田湾に面したところに城山(標高81m)があり、山頂に引田城跡がある。 築城者は不明であるが、室町末期には寒川氏に属した四宮右近が居城していた。元亀元間(1570)には阿波三好氏と戦い、寒川氏が三好氏に屈し引田城を引き渡した。そして三好氏は家臣の矢野駿河守三武に城を守らせたが、天正7年(1579)三好式部少輔に討たれる。やがて長宗我部元親の阿波・讃岐侵攻が本格化し、三好氏は羽柴秀吉に援軍を要請し、天正11(1583)年仙石秀久が秀吉の命により引田に入る。天正12年(1584) 仙石秀久は長宗我部元親に破れ淡路島に逃げかえる。天正13年(1585)長宗我部元親四国を平定する。同年の天正13年(1585)長宗我部元親四国を平定する。同年の天正13年(1585)長宗我部元親、秀吉に敗れる。 天正14年(1586)仙石秀久が讃岐に入るが失脚し、天正15年(1587)生駒親正が讃岐に入城したが、直ぐに宇多津の聖通寺城に移り、引田城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城になった。 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、生駒親正は西軍の石田三成方に、子の一正は徳川家康方に味方した。徳川家康方の勝利により、親正にかわって一正が讃岐17万1800石の領主となった。慶長15年一正が没し、その子正俊が後を継いだ。 引田は引田湾に突き出た標高82mの半島により、北西の風を防ぐ天然の良港で、東讃を代表する港であったので。室町期・江戸期を通じて物資の集散地となり、日用品や穀物・紙・綿などを扱う商家も軒を並べ、町は活気にあふれていた。 しかし、この地方は干ばつの被害が大きいため、藩主が砂糖の製造に着目、稲作にかえて砂糖黍の生産を奨励した。そしてこの地方に合ったサトウキビの栽培や製糖法の改善が行われ「三盆糖」の製法が考えられ、これが今、引田の特産品となっている「三盆糖」である。 糖業の隆盛とともに豪農があちこちに出現し、門構え、白壁の練塀を巡らした豪邸が多く建ったが、一般農民の懐も多いに潤った。しかし、亜熱帯でのサトウキビから生産される砂糖より品質の点で劣り、、大量生産による価格の差もあり、明治期に急激に衰退した。 引田塩の歴史は古く、文安2年(1445)「兵庫北関入船納帳」により、商品としての塩が造られていたことがわかる。引田の塩つくりは、藻塩焼、自然浜の時代を経て揚浜式塩田へと発展し、生駒親正が讃岐の領主になってからは、殖産業として塩業を振興し、塩屋から安戸浜さらに松原浜へと広がった。安戸には塩庄屋が置かれるほど発展した。 この引田で醤油の醸造が行われるようになったのは、はっきりとはわからないが、元録11年(1698)に原料の小麦・大豆を備前と高松で大量に買いつけ、引田浦で荷揚げしたことが藩への届出に残っていて、古来より、引田村は良質の塩の産地であり醤油の生産に適していた。 引田村での醤油醸造の始まりは、小豆島での醤油生産の開始と同じ時期に始まっているようである。文化2年(1805)の「地方御用留」(日下家文章)に醤油屋 米屋久次郎が買いつけた原料の大豆と小麦を引田浦へ水揚げする旨の藩への報告書があり、文政期の末には醤油造りが軌道に乗っていたようだ。 引田村の醤油屋は米屋、井筒屋の二軒が順調に発展し、その後、池田屋、花屋も創業し、引田村での醤油は寛政末(1790)から文化・文政期(1804〜29)にかけて急速に発展した。 町中には大庄屋の日下家、醤油屋の井筒屋(佐野家)と岡田屋(かめびし屋)の岡田家などの、かっての御三家がそのまま残っていて、古い伝統的な商家が軒を連ね、白壁の土蔵、白壁の土塀など江戸時代の景観を残していた。日下家は長屋門のある大きな屋敷の旧大庄屋で、壮大な主屋は入り母屋造りで平屋建て本瓦葺きであったが屋根は二層になっていた。 井筒屋(佐野家)は廃業されて今は無住になっていたが商家の建物で、主屋は入り母屋造りの中二階建て、漆喰塗り込めの虫籠窓、本瓦葺き平入り、格子、出格子であって、白壁の大きな長い土蔵など圧倒されそうな豪壮さを誇っている。 かめびし屋は赤壁で醤油造りに励んでおられる。主屋も土蔵も醤油蔵も門も壁も全部赤壁で、自動車までも赤色であった。主屋は切り妻造り、中二階建て、赤漆喰塗り込めの虫籠窓、平入り、本瓦葺き、格子、格子戸で、土蔵の腰の部分はナマコ壁になっていた。 この辺りの商家の建物は、入り母屋造り、中二階建で漆喰塗り込めの虫籠窓、平入り, 本瓦葺、格子付きであった。 香川県の歴史散歩 山川出版社 香川県の歴史散歩編集委員会 1996年 引田町史 引田町 引田町史編纂委員会 四国小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |