東かがわ市三本松は 香川県東部、与田川右岸の沖積地に位置し、北は瀬戸内海播磨灘に面し、須賀の浜が広がる。浜の東端に三本松港がある。 江戸期はじめは生駒氏領、寛永19年(1639)から高松藩領。村高は「寛永17年(1637)生駒市惣高覚帳」471石余、「貞享元年(1684)高辻帳」484石余、「天保郷帳」475石余、「旧高旧領」484石余。 天明7年(1787)の村明細帳によると、家数429・人数1,539、うち本百姓621・本水夫153・賃水夫223・漁師210・酒屋19・紺屋19・御林守12・大工7など。他に御林2・池7・船80・浦番所2・狼煙場2・牛40。寛政11年(1799)の家数611・人数1,740。 好漁場に恵まれ漁業も盛んであった。三本松浦の漁場は松原・湊・小磯・馬篠の各浦の地先から海上に及ぶ広範囲であった。網数は天明7年(1787)に地引網7・中高網1・たい高網15・海鼠網2・立網260・はも網16・たなご網3・手繰網2・ごち網5など。 また、東讃屈指の湊であった三本松浦の廻船は文政10年(1827)の船数石目調によると、800石積1・600石積2・450石積1・400石積2で、これらの船は江戸表及び駿河・伊勢・北国など諸国商いの船で、100石積以下の小船が73艘あった。 日本海に沿った北國との交流も盛んで、越後・秋田・能代・庄内・長門の下関、出雲、因幡など多様な湊に出入りしていたが、特に秋田が多い。塩・砂糖・米・縞木綿などを積み込んで売却し、干鰯・煎子・扱苧・半紙・鉄などを買い入れている。 また、この地では寛政(1789〜1801)頃から砂糖生産が普及した。サトウキビ作付面積は文化11年()1町1反、文政7年4町3反余りとある。 東讃浜街道(志度街道)が東西に通じ、街道に沿って町並が形成された。「讃岐国名勝図会」に「高松より行程八里。民家軒をならべ、豪商・富売・工人・漁家など数多あり。かつこの浦に千石以上の大船数十艘あり。近浦に秀でし繁花の地なり」とあるように、海陸交通の要所として栄えた。 今、三本松港に近い所に古い町並が展開している。漁港としても機能していただろうが、北前船など諸国の廻船が寄港する港町だった様相が残る町並である。本瓦葺きのどっしりした大型の商家建物も多く残っていて、繁栄していた当時を偲ばせている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 下中 弘 1989 |
三本松の町並 |
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