椿泊は阿波水軍の根拠地であって、椿泊全域が水軍の統師森家の知行地であり、人口の半数が家臣(舎人)であった。 森志摩守村春は天正年間(1573〜92)長宗我部氏に従わず、蜂須賀家政の木津城攻略に功績があり、椿泊を中心に約3,000石の知行地を与えられ、以後阿波水軍の根拠地となった。また森家は蜂須賀家政から椿泊以南海部郡内の漁業権を得ていた。 慶長11年(1606)江戸築城の運使を勤め、慶長19年(1614)の大坂冬の陣には蜂須賀至鎮に従軍している。水軍は参勤交代や藩主の子女の輿入れなど藩主の船運の全てを行うなど、森家の役割は大きかった。 椿泊浦に居住する家臣を譜代と外様に分離し、外様は無禄であったが、譜代家臣には役目をつけ扶持米を与えた。椿泊浦の譜代家臣(浦士)は48軒であったが、明治初年には65家となっていた。 天明6年(1786)の村々浦里男女人改帳では687人であり、文化年間(1804〜18)に編纂された「阿波志」によると、椿泊浦の戸数250・人数723で、半数は森氏の舎人(家臣)であった。 明治9年の戸数450(森氏家臣59)うち伊島96、人数2,365(士族322)うち伊島573。職業別戸数は農業2、商業47、漁業391、工業11であった。 町並の奥の方に椿泊小学校がある。その敷地が森甚五兵衛が造った椿泊城跡で、森甚五兵衛屋敷跡でもあり、江戸時代には陣屋が置かれていたところである。今は小学校の敷地の海側は埋め立てられて道路や家になっているが、往時は直接海に面していて、海岸から石垣が聳えていた。 この町並を車で訪ねたのですが、一旦町並に入ってしまうと、路地のような狭い道(幅2m〜2.5m程度)が延々と奥に奥にと続く。出違う車も多く、離合に苦労したが、当地の住人は馴れたもので、こちらが右往左往していると、相手の車が上手くかわしてくれた。 このような古い歴史ある港町・漁師町の道路はこの程度の幅のところが多いが、多くのところは海岸沿いを埋め立てて道路にしているところが多く、椿泊のように昔からの道を今でもそのまま使用しているのも珍しい。でも、後ろは急峻な山、前は深い海ともなれば簡単に道路が造れないのだろう。それも海岸線に沿って曲がりくねり、およそ今現代の車の往来する道路とは思えない。 この町並の特徴は窓際に手摺が付けられていることである。この地方の漁師町・港町の特徴の上下に開く戸板が備わっているぶっちょう造り(ミセ造り)があるのだが、この椿泊にはこのぶっちょう造りがないことである。また、つけられた手摺の多くには凝った彫り物が施されており、手摺だけを見て歩くもの楽しいものでった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名徳島県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 日本の町並U別冊太陽 平凡社 西村幸夫 2003年 徳島県の歴史散歩 山川出版社 湯浅良幸 1995年 |
椿泊町の町並み |
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