阿南市橘の町並み 

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橘の町並み

 徳島県東部阿南市街の南約5km程のところに位置する阿南市橘は、中世から江戸時代は加子(漁業)集落で、住民の殆どは漁業に従事していた。江戸期を通じて徳島藩領。
慶長期のものと思われる国絵図には「たち花」。寛永(1624〜44)前期のものと推定される国絵図には橘村と記され、正保国絵図では橘浦と記されている。
「稿本橘浦村史」では、当浦は加子の居住する地で、豊臣秀吉の朝鮮侵略に際しては、文禄元年(1592)28人、文禄3年(1594)30人、慶長2年(1598)30人の加子が、蜂須賀軍の海上輸送の任務で参加している。また島原の乱の際には寛永15年(1638)に50人の加子が当地から動員されている。延宝2年(1674)の棟附の時の当浦加子の人数326とある。
延宝2年(1674)では家数204・人数(男のみ)590で、天明6年(1786)では人数1,658。文化8年(1811)の棟附帳写では家数522・人数2,502・船89で社寺以外は殆ど全てが加子(漁業)身分となっていて、漁業の盛んな村であった。
海岸はV字湾になっており大きな津波の被害を受けやすく、人口が密集し飲料水が乏しいため火災や伝染病の被害も大きかった。
明治に入ってから、定期航路の寄港地になり橘が県南部の物資の集散地となり、商工業が発展した。明治42年の家数780・人数4,253、6割は商工業、3割は漁業、一割が農業とその他の雑業であった。橘には汽船・商船の入港が月に700艘を数え、商工業者は京阪神と直接取引をしていた。
今、町並みを歩くと在郷町・商業の町だった面影が色濃く残っていて、漁業が生業だった面影は殆ど残っていない。
明治に入ってから商業が発展した余韻がそのまま今に残っているようだ。旧土佐東街道に沿って町並みが展開している。切妻造り平入り2階建ての商家建物が連なる。2階窓には手摺が付いた四国東部の特徴ある家屋の光景が広がる。かってはどの家も間口を開いて商いをされていたのだろうと思われるが、現在は旧街道筋に面して建つ住宅街になっていた。 
町並み指数 40
参考文献   
  香川県の歴史散歩  山川出版社  香川県の歴史散歩編集委員会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会
  徳島県の地名   平凡社   (有)平凡社地方資料センター   2000年

橘の町並み

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