与那国町与那国の町並 
与那国
地図



与那国の町並

 与那国町は日本最西端に位置し、竹富町西表島の西で、八重山諸島の一島である。西方約110kmに台湾島がある。
与那国島は崇禎元年(1628)八重山が三間切制に移行したときに大浜間切与那国村として把握されたが、遠隔地のため乾隆32年(1768)以降、間切に属さない特別行政区として明治に至った。
明治41年八重山諸島全てを包括した八重山郡八重山村が成立し、与那国はその大字となった。しかし八重山村は区域が広大過ぎて行政上不便なため、大正3年四ヶ村(石垣・大浜・竹富・与那国)に分村、与那国村が成立し、昭和22年に与那国町となった。
順治8年(1651)の人数124人、乾隆2年(1737)477人、嘉慶20年(1815)1,080人、明治5年家数267・人数1,327、明治13年の家数317・人数1,736、明治36年家数469・人数2,507。人口の八割が村番所のある祖納に集中していた。近世後期には役人の不正が目立ち、また沖縄島や石垣島から多くの商人が渡島し、諸商品を高利で掛売りするなど、飢餓や悪疫流行など、また、有名な人頭税で島は疲弊の極みであった。その中で人減らしにまつわる深刻な問題が発生していた。
太平洋戦争直後、米軍政権下の置かれた沖縄では、食糧・生活必需品は全て米軍の配給物資や救援物資に頼らざるを得なかった。無論それだけでは生活できず、米軍物資集積所から「戦果」と称して米軍物資を抜き取ることが日常化していたが、宮古・八重山では米軍からの援助も殆ど無く、闇船によって台湾・中国・マカオ・香港などと密貿易が横行し、それによって人々は食糧や生活必需品を確保した。米軍からの取締り指示があるにも拘らず、琉球警察も見て見ぬふりを貫き、人民を飢えから救った。この密貿易の拠点となった与那国では人口が12,000人から15,000人にもなったという。この時期に与那国町になった。(参考 現在平成26年3月 766世帯・1479人)
与那国島は石垣島から飛行機で約35分、フェリーで約4時間30分。今回訪ねたのは与那国島の中心集落の祖納集落。空港から慣れないバイクに乗っての訪問だった。
与那国町役場のある中心集落。日本最西端の地酒と看板を揚げたお店もあったが、ここで醸造しているかは??。
集落内を歩くと、比較的フクギの少ない集落で明るい感じがする。それと同時に琉球石灰岩の石垣も少なくコンクリートブロック塀の多い集落だ。集落内の民家は平屋建ての寄棟で、沖縄独特の開口部の大きな家屋で、最近建てられたと思える建物は赤瓦でも漆喰を塗り込んでいないが、古い形式の建物では赤い瓦が漆喰で塗り固められ、その漆喰が風雨に曝されて、独特の風情を醸し出している。
沖縄独特の目隠しのヒンプンもこの与那国では余りお目に掛からない。自動車の普及で出入りに邪魔になるので取り払われたのかも知れない。魔よけのシーサーも殆ど見られないようだった。集落の外側は全てサトウキビ畑で、製糖工場み集落近くに見られた。
町並み指数 50
参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典、編纂委員会  昭和61年
  日本の地名沖縄県   平凡社   (有)平凡社地方資料センター   2002年

与那国の民家

与那国の町並

与那国の町並

与那国の民家

与那国の民家

与那国の民家

与那国の民家

与那国の民家

与那国の民家

与那国の民家

与那国の民家

与那国の民家
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