柳川は福岡県の南西部、筑後平野を形成する一級河川筑後川・矢部川両川の河口に位置し、殆ど高低のない低湿な沖積地で、筑後平野特有のクリーク(低湿地の運河や水路)網が発達している。現在でも市街地を掘割が幾重にも通り、水郷柳川の名で呼ばれている。 柳川は豊臣政権下の天正15年(1587)から慶長5年(1600)までは、立花宗茂の城下であったが、関ヶ原の戦いで西軍に属したため除封された。翌慶長6年(1601)田中吉政が筑後一国32万石余の領主となり、柳川城を居城にして、全面改修を行った。 田中氏には子供が無かったため2代で断絶し、元和7年(1621)奥州棚倉にいた、前城主の立花宗茂が再び旧領柳川に複封され、以後、明治維新まで柳川藩立花氏13代の城下として発展した。 柳川城の形跡は殆ど残っていないが、本丸跡は柳城中学校運動場にわずかに天主台の石垣と掘割の一部を残すのみである。 柳川城は豊臣政権下の立花氏や江戸期に入って、田中吉政により近世城郭として修築され、寛永4年(1627)には5層の本丸天守閣の他、8つの曲輪と7つの矢倉を備え、城内には約300戸の侍屋敷が配置されていた。 藩主の居宅二の丸は本丸の東隣にあったが、元禄10年(1697)3代藩主鑑虎のとき、城内の南西隅に茶屋を設け、元文元年(1736)以降、藩主一家がここに住むようになった。ここを通称花畠といい、今日「お花」として知られている旧立花伯爵邸である。 関ヶ原の戦い後、入封した田中吉政とその後の立花氏によって溝渠・井樋の整備が行われて城下町を整えられた。元和〜寛永年間(1615〜1644)には寺社を集め(西魚屋町・鍛冶屋町・元町・糀屋町)、足軽・扶持人の住居も確定させている。このように城下町柳川の町割りが明確になっていき、城内(武家屋敷)と城外(町人町)に分けられていった。 元禄5年(1692)には武家屋敷412のうち城内353、城外の鋤崎に59、また足軽屋敷は483のうち鋤崎に433あった。城外の町人町は城下南東部の町からなる瀬高町組、城下北西部の町からなる本町組に編成され、宝暦2年(1752)の家数は瀬高町組319、本町組534。人数は瀬高町組1,383、本町組2,194であった。 今はクリークや掘割が完備され、水郷の町柳川と観光宣伝され、どんこ舟による川下りが観光客に人気だが、城下町時代には掘割の掘削によって、水環境の極めて劣悪な湿地帯の悪水の排水に努めた努力が偲ばれる。 古い町並はこれといってまとまって残っていないが、北原白秋旧宅の周辺から旧藩主居宅「お花」にかけてはそれらしき風情が漂う。伝統的な家屋は妻入り・平入りが入り混じった町並であり、北原白秋旧宅のように、平入りなのか妻入りなのか判断がつかないT字型の家屋も多くあった。 北原白秋旧宅は道に沿った平入りの建物に、奥から直角に別棟が押し付けられて、間取りは妻入りの棟の間取りになっている状態である。言い換えれば妻入りの家屋を豪華な家に見せるために、平入りの棟屋根を乗せたような複雑な構造の建て方であった。 でも、この型の全ての家がこのような間取りでもなさそうで、平入り部分の間取りで、その奥に妻入り部分が後ろに伸びているような家もある。この構造は何処から伝わってきたのか、興味深いところである。 福岡県の歴史散歩 山川出版社 福岡県高等学校歴史研究会 1996年 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |
沖端町の町並 |
沖端町の町並 |
沖端町の町並 |
新外町の「お花西洋館」(旧藩主邸) |
江曲の味噌蔵 |
柳川の川下りの景観 |
沖端町の旧北原白秋の生家。この家平入りなのか 妻入りなのか。間取りは妻入りだが |