福岡県南部、黒木盆地の東部に位置し、矢部川上流で笠原川との合流地点に発達した中世の城下町である。 南北朝期、南朝方として活躍した黒木氏は猫尾城(黒木城)を本城とし、一帯に勢力を振るっていた。戦国末期の天正12年(1584)大友義統に攻められ自害して落城した。その後、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州仕置で領地は筑紫広門の領するところとなる。関ヶ原の戦い後、柳川に入った田中吉政に筑後一国は与えられ、家臣辻勘兵衛を黒木城代としたが、田中氏断絶で元和6年(1620)久留米に入った有馬豊領となる。元和7年(1621)久留米領主有馬豊氏のとき廃城とされ、石材などは久留米篠山城の修城に利用された。江戸期、矢部川の北側は久留米藩領、南側は柳川藩領であった。 その後、城下町で無くなった黒木町は在郷町として発展、奥八女の物産の集散地として活躍した。 元禄8年(1695)の郡中品々寄では、町の長さ4町15間。元禄13年(1700)作製の町絵図に東西に通る道に道筋285間・幅4間とあり、道筋の両側に短冊形の町家が連なり、軒数117とある。「啓忘録抜萃」では家数70・町の長さ4町50間とある。 正徳5年(1715)では町内に米屋・油屋・代物屋・漆屋・紺屋・酢屋・晒屋・質屋・酒屋・提灯屋・唐蓑屋・豆腐屋などあらゆる職種がいた。 今、古い町並みは国道442号線の一筋南の旧道沿いに展開する。一部古い伝統的な様式で建てられた商家建物が連続した所がある。イラストマップでは「100年以上前の町並」と紹介されていた。妻入り、白漆喰塗込めの家屋が多いが統一された様式でなく、窓の形もそれぞれの意匠であった。 この妻入りの古い町並みを歩くと、統一感の無いのがかえって見るものに安らぎを与える町並みだった。 尚、町並みの一角に造り酒屋さんが2軒、醤油醸造業者が2軒とかたまった所にある。どうして一か所に固まったのか不思議な地域があったのには驚いた。 福岡県の歴史散歩 山川出版社 福岡県高等学校歴史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 福岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2004年 |
黒木町の町並み |
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