八女茶・八女仏壇などで知られている八女市は、福島県の南部に位置している。 天正15年(1587)豊臣秀吉は九州平定後、上妻郡の1万8千石を筑後広門与えた。福島城はその筑後広門によって築かれた平城である。関ヶ原の戦いでは西軍に属したので所領は没収され、筑後一国は田中吉政に与えられ柳川城を本城とした。吉政は三男康政を福島城に配した。康政は福島城を大規模に改修し、城下町としての体裁を整えた。だが、元和6年(1620)に田中氏が断絶し、翌年有馬家が久留米へ入部し、そして明治維新まで当地は久留米藩領有馬氏に支配された。 福島城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城になったと思われ、有馬氏の久留米城改築のために福島城の石垣などが運び出された。元和元年の福島城破却後に残った町家一帯が福島町となり、城跡に花宗川沿いの集落を移したのも含み福島町の北側に福島村。福島町の西側に稲富村が成立した。そして城下町から在郷町へと変っていった。 貞享5年(1688)の記録によると福島町は家数314・人数1,855とある。町別では紺屋町151間・52軒、宮野町137間・66軒、京町89間・38軒、古松町142間・76軒、矢原町188間・86軒となっている。慶応4年(1868)の家数382・人数2,203とある。 福島城古図によれば本丸・二の丸の西に矢原町、南に宮野町・古松町、東に紺屋町があり宮野町の南に新町、紺屋町の東に唐人町があるが、この二町は福島村域である。 福島町は上妻郡の物資の集散地であり交通の要地であった。八女地方は近世以降、和紙・茶・櫨蝋・提灯・仏壇・石工芸のど、様々な特産品の開発や、積極的は商工業の振興による冨の蓄積で重厚な商家が連続した町並が形成された。 町では2・6・9の日に九斎市が開かれ、茶・和紙・をはじめとした諸物産が売買されていた。矢原町・古松町などに仏壇屋が多く、宮野町・紺屋町には茶屋・紙屋が集まっていた。 この町も度々の大火に遭っている。元禄9年(1696)、正徳4年(1714)、享保7年(1722)、元文5年(1740)、寛政4年(1792)、文化6年(1809)などの大火を経て、居蔵と呼ばれる妻入り入り母屋造り漆喰塗り込めの土蔵造りの町家が建てられた。天保9年(1838)に東古松町に、福島で最初の居蔵が建てたれ(下の写真)、その後土蔵造りの家が徐々に増えていった。今でも旧街道筋の矢原町・古松町・京町・宮野町・紺屋町・唐人町などに伝統的な形式の町家が多く残っている。 福島の古い町並はこの居蔵の建ち並ぶ景観が特徴で、平成14年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 福岡県の歴史散歩 山川出版社 福岡県高等学校歴史研究会 1996年 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 日本の地名福岡県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 別冊太陽日本の町並U 平凡社 湯原公浩 2003年 |
本町の町並 |
本町と東宮野町の町並 |
本町の町並 |
東宮野の町並 |
西京町の町並 |
西京町の町並 |
東古松町の町並 |
東古松町の町並 |
東古松町の町並 |
東古松町の町並 手前の家が福島で最初に建てられた居蔵の「房屋」今里家 |