鹿児島市から南へ約380km海上にある奄美大島の大和村は、奄美大島の中部に位置し、北から北西は東シナ海に面している。 大和村の江戸期は鹿児島藩の直轄地で、焼内間切大和浜方に属していた。大和浜方は、今里・志戸勘・名音・戸円・金久・大棚・大和浜・恩勝・津名久・湯湾釜・国直・毛陣の12ヶ村であった。 明治初年と考えられる大和浜方村明細帳では高頭775石余、田79町余・畑15町7反余・山野102町2反余、貢米325石余、砂糖31万1084斤、人数3,417人、現夫627人・半夫76人とある。 そして大和浜村の明細帳では高頭134石余、田13町5反余、畑3町4反、山野6町8反、人数423人、現夫49人、半現夫6人とある。 大和浜村は焼内間切の大和浜分に含まれた村で、田畑佐文仁が正徳2年(1712)から元文3年(1738)までの20数年間に島内で行った494町余の新田開発の一部に当村の名が見える。 大和浜村は大和川河口左岸に位置し、大和浜湊が置かれていた。当地には「ユカリッチ」(良人、この地を治める者)は太家と和家で、大和浜の中心部に居住跡が残っている。 大和浜湊は古く、大和政権による八世紀の遣唐使の寄港地となった可能性もある古い湊である。 「正保琉球国絵図」に「大和馬場湊」とみえ、湊入5町、広さ3町、干潮時の深さ8尋で、大型船5〜6艘ほど係留でき、東風の場合は船掛かりが悪いとある。 大和浜から少し離れた位置に郡倉(高倉)がある。高倉の集合体で防火のため集落から離して建てた倉庫建築である。4本柱寄棟が普通だそうだが、かっては6本足や9本柱の高倉もあったそうだ。 天井が倉庫となり、防風・防鼠・防湿・防火の建物である。 今、集落を歩くと、コンクリートブロック積のブロック塀が多く見られ、薩摩藩の麓集落の様相である。鹿児島から380kmも離れた奄美大島で麓集落ではないでしょうが、麓集落を手本として集落が形成されたのだろう。ブロック塀の内側には平屋建、トタン貼屋根の民家が、武家屋敷のように並んでいた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 鹿児島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1998年 |
大和浜の郡倉(高倉) |
大和浜の町並 |
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