山鹿の江戸期は湯町と呼ばれ豊前街道の宿場町で、菊池川の河湊もある交通の要衝であった。九日町は金剛乗寺の門前市と推定され、戦国期には温泉も知られ既に町場を形成していたようだ。 佐々成政の改易後、加藤清正が領し、加藤氏改易後は熊本藩領となる。湯町は宿場町・在町・温泉場として栄え、藩主の入浴も度々に及んび、入浴規則も張り出され温泉の整備も進んだ。 下町の町並最南端の菊池川に高瀬(現玉名市)までの舟運積出湊があり、宝暦13年(1763)の山鹿町絵図にも石垣が積まれた湊が描かれており年貢米が運ばれていた。 同絵図によると、メインストリートは現上町・日吉町・九日町・中町・下町の通で、この道路にそって寺院・惣代会所・温泉が描かれ、山鹿会所は道路に面して冠木門があり、周囲に竹垣を巡らし御内検小屋・惣代・在御蔵・御惣庄屋山鹿左衛門居宅があった。湯之端は生垣で長方形に区切られ、東側半分に薬師堂、西側半分に御前湯・御次湯・外湯があった。 同絵図によると当時の家数は525軒で、表通りの大部分は店舗で、2間半の間口の家が最も多く125軒、3間が70軒、10間以上が5軒である。また表通りに並んだ店の62パーセントは借家で、その家主は数人だけだった。 市は3ヶ所であったが、元禄4年(1691)から4ヶ所になり4市日に市が立っていた。文政9年(1826)の山鹿手永書付によると、家数489・人数2,807。 今、伝統的な様式の商家建物を中心とする古い町並は、緩やかに湾曲した旧豊前街道沿いに展開する。その中でも菊池川に沿った下町辺りと山鹿灯篭資料館のある九日町辺りに集中していて、国重要文化財の八千代座や夢小蔵資料館のある八千代座通りは幟旗が立並び一種独特の世界を演出していた。 下町の伝統的な町並は千代の園酒造の建物群をはじめとして、各商家の主屋、土蔵などが旧街道に沿って建ち並んでいる。平入り切り妻造り、中2階建て、黒漆喰塗り込めので虫籠窓を備えた重厚な商家建物である。中には数棟、切り妻平入りの建物に奥から一層大型の切り妻屋根が乗りかかったような建物があり、妻面の白漆喰が印象的である。 8月15・16日の山鹿灯篭祭りは全国的に有名であるが、ここでは省略させて頂く。 熊本県の歴史散歩上 山川出版社 熊本県高等学校社会科研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62 熊本県の地名 平凡社 下中邦彦 1985年 別冊太陽 日本の町並U 平凡社 湯原公浩 2003年 |
八千代座 |
山鹿(九日町)の町並 |
山鹿(九日町)の町並 |
山鹿(下町)の町並 |
山鹿(下町)の町並 |
山鹿(下町)の町並 |
山鹿(下町)の町並 |
山鹿(下町)の町並 |
山鹿(下町)の町並 |
山鹿(下町)の町並 |