山鹿市鹿本町来民は熊本県北部、菊鹿盆地の中央で熊本市の北約25kmに位置する。来民は明治9年新町と上御宇田村が合併して成立したもので、今回訪ねたのはその中でも新町の部分である。 当地はもともと上御宇田村のうちで、商家なども並んでいたが、戦国末期の兵乱により焼失し、黒土町と呼ばれていた。寛永16年(1639)頃に、熊本藩主細川忠利によって上御宇田村から独立した在町に取立てられ、新町と称するようになった。 新町は熊本藩領、中村手永に属していた。「肥後国誌」では新町の町高はは上御宇田村のうちとあり227石余、「旧高旧領」では新村と見え244石余。家数は慶安〜承応年間(1648〜55)40余、元禄年間(1688〜1704)120余、宝暦5年(1755)130余とあり、宝暦13年(1763)の新町絵図には157が描かれている。天保9年(1838)の山鹿・中村手永手鑑には家数249・人数1,045、明治5年の山鹿・中村・深川・河原手鑑には家数260・人数1,059とあり、町場としての発展が顕著であった。 宝暦(1751〜64)頃には2・7の六斎市が開かれ、問屋1・酒屋7・旅人宿2があった(中村手永御藏納手鑑)。その繁栄振りは、江戸中期の井沢蟠龍「肥後蟠の記」に「中村ひいきの方保田有りて蒲生村有り、物事上下吉田にして新町の賑い有るは、菊池外の他郡よりも手寄能くおのづから市日に集まり商売の利潤多し」と記されている。 江戸期以来、交通・運輸は馬による駄載と菊池川の水運に頼っていたが、大正10年鹿児島本線植木駅から来民まで鹿本鉄道が開通して、発展を期待されたが自動車に輸送を奪われ、営業不振となり昭和40年には営業を廃止してしまった。 この地の産物として特筆されるものに団扇生産がある。製法の伝わったのはいろんな説があり定かでないが、寛政4年(1792)高山彦九郎の「筑紫日記」に「新町とて四、五百軒の町家しぶ団扇を多く作るを業とする」とあり、団扇生産の発展振りを知ることができる。 今回訪ねた古い町並は、山鹿で薩摩街道から分かれて菊池に向かう旧菊池往還沿いの来民(新町)の町並である。旧街道の北側に国道325号線がバイパスとして開通したので、旧菊池往還はチルド保存された形になったが、町役場・中央公民館・農協・郵便局などが移転され、行政や経済の中心も移動してしまった。 町並みを歩くと、熊本大震災の一年程後だったので、まだ、修復されてない建物も見られたが、白漆喰に塗る込められた重厚な妻入りの商家建物が多く見られ、白い大型建物が連なっている所も見られ、見応えある町並が形成されていた。保存に値する建物も散見できるが、地域の保存活動はどうなんだろう。 町並みを歩いている限り保存への動きは感じられなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 熊本県の地名 平凡社 下中邦彦 1985年 「くまもと歴町50選」 WEB書籍 熊本県 2013年 |
鹿本町来民の町並 |
鹿本町来民の町並 |
鹿本町来民の町並 |
鹿本町来民の町並 |
鹿本町来民の町並 |
鹿本町来民の町並 |
鹿本町来民にある旧来民郵便局 |
鹿本町来民の町並 |
鹿本町来民の町並 |
鹿本町来民の町並 |