臼杵の城下町は大友宗麟が永禄5年(1562)に丹生島に丹生島城(臼杵城)を築いたことにはじまる。当時は丹生島は文字通り島で、四方を臼杵湾の白波に洗われる要害の地であり、干潮のときに一ヶ所だけ砂地が現れ陸地とつながる、珍しい海城だった。 築城当時、城下町特有の武士集住地区は形成されなかったが、キリスト教会が建てられ、臼杵がキリスト教布教の中心となった。 大友氏滅亡後は垣見家純の預かり地となり、その後福原直高、次いで太田一吉が城主となった。関ヶ原の戦い後、美濃八幡城から稲葉貞通が臼杵5万余石に封ぜられて以後、明治4年の廃藩置県までの272年間、稲葉氏15代の治めるところとなった。 城下町は商人町として俗に「町八町」と称される唐人町・畳屋町・横町・浜町・掛町・本町・田町・新町があり、幕末まで藩の経済中心地として繁栄していた。町八町は純粋な町人町として構成されたが、祇園洲は城地の三の丸となり上級武士と藩主下屋敷が置かれ、石垣と松並木の並ぶ堀を境に唐人町と対した。 武家屋敷地は町八町の南側に西から東へ福良村、仁王座村、海添村へと帯状に広がって置かれた。福良村には下級武士、仁王座村の塩田には中級武士、海添村には足軽・鉄砲組の下級武士が居住した。福良村の平清水は城下南西の出入り口にあたり、城下同様の商売が許されていた。 低平地にある町八町と丘からの斜面に位置した武家屋敷の境には寺院が配されて、あたかも門前町の様相を呈していた。町八町の家数・人数は寛文10年(1670)291軒・2,380人。享保3年(1718)453軒。元文5年(1740)455軒と増加しており、文化14年(1817)には626軒にもなった。 町人は酒株・質屋株のどの株を藩から許され、冥加金や運上金を上納して緒営業に携わった。 天保8年(1837)には酒屋・呉服屋・魚問屋・煮売屋・駒の足・質屋・麺類屋・風呂屋・芝居受方・薬店・旅酒販売・旅船商売・油屋の13種が株物とされ、それ以外は自由営業とされていた。 臼杵の町で特筆すべきことは、江戸初期からの城下町の町名が変更もなく、そのまま残り現在でも使われていることで、大変珍しいことだと思う。町割りも町名同様にそのまま残り、今でも江戸時代そのままの町割りであった。 古い町並は二王座辺り、浜町の造り酒屋辺り、平清水辺りに展開している。二王座は武家屋敷と寺院が建ち並ぶ地域で、石畳と石垣が白漆喰壁の町並に調和した落ち着いた町並であった。2軒の造り酒屋の並ぶ浜町の野上弥生子文学記念館辺りも白漆喰壁の醸しだす江戸・明治時代の雰囲気の町並が展開していた。 久家の大蔵には、臼杵市がポルトガルの装飾タイル壁画作家のロジェリオ・リペイロ氏に製作を依頼した大きなタイル壁画が貼り付けられていた。 大分県の歴史散歩 山川出版社 福岡県高等学校歴史研究会 1996年 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 大分県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1995年 |
祇園洲の旧稲葉家下屋敷 |
浜町の町並 |
浜町の町並 右手は野上弥生子文学記念館 左手は久家の大蔵 |
浜町の町並 |
二王座の町並 |
二王座の町並 |
本町の八町大通の町並 |
本町の八町大通の町並 |