宇佐市長洲の町並み 
長洲
地図


長洲の町並
 宇佐市長洲は大分県北部、国東半島の北側の着根部で駅舘川の河口右岸に位置し、北は周防灘に面する。
天正15年(1587)黒田領(のち高田)、慶長5年(1600)中津藩(のち小倉藩)細川領、寛永9年(1632)竜王(のち高田)藩松平領、正保2年(1645)幕府領で木付藩預地、寛文9年(1669)肥前島原藩松平領、寛延3年(1750)同藩戸田領、安永4年(1775)同藩松平領で幕末を向かえる。
元和8年(1622)家数166・人数727、天明8年(1788)家数516・人数2,036、馬34、船83、幕末の廻船業5・酢屋5・紺屋3・塩屋2・魚屋3・醤油屋3・酒屋3。船83艘のうち53艘は廻船で、大坂廻船も多く、この地で造船や修理も行われていた。弘化4年(1847)家数833・人数3,573・馬34。
当地の港(堀川港)は古くからの良港で、16世紀前半と思われる資料でも宇佐宮造営材木の長洲陸揚げが確認できる。商港としてだけでなく漁港としても賑わいを見せており、沖番所が置かれ、港へ出入りする緒船を監視するだけでなく、魚改役もいた。安政5年(1858)頃には鯨も捕れていて、魚の行商も盛んであった。
この町を歩くと港町・漁師町らしい細い路地が続いている。中にはびっくりするほど大型で漆喰塗りこめの家屋も見られる。廻船業で潤っていた当時の面影だと思われるが、建てられたのは江戸末期から明治期だろうと思う。
家に帰って調べると、漁師町、港町特有の人家密集地だから、江戸時代には大火に見舞われている。元禄16年(1703)には寺社在家5〜6軒だけを残した大火、享保17年(1732)にも宮社3ヶ所残るのみと云う大火があり、同じ年にウンカ(稲に付く害虫)が大量に発生し、飢民・餓死者が多く出たという。
この町も過疎に悩まされているようで、漆喰が剥げて手入れが出来ていない家、無住のまま朽ちていく家、取り壊されて更地になったところが多くみられた町並みで、探索を終えても気分が冴えない町並み探訪だった。
町並み指数 40 
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
   大分県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1995年  


長洲の町並

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