吉井の白壁・土蔵造りの町並は平成8年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、生活されている生きた町並がそのまま保存されている。 吉井は天正末期、豪族の星野氏の福益城下の町民が、城の滅亡と共に交通の便利な吉井の里の移り、次第に町の体裁を整え、慶長7年(1602)頃には町の原型ができていたものである。以来、周辺農山村の産物の集散地として発展し、吉井銀と呼ばれる金融活動で資力を蓄えた商人の町で、今に白壁土蔵の町並を残しているのである。 天正15年(1587)豊臣秀吉の九州大名配置によって、当地は小早川隆景が領し、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)からは田中吉政が筑後一国を領した。その後元和6年(1620)からは有馬豊氏が筑後北部21万余石を領し、久留米藩が成立し以後幕末まで有馬氏の領地となった。 吉井町は日田街道(豊後街道)の宿場町・在郷町として発展してきた。久留米藩内五宿駅の一つに指定されていた。元禄8年(1695)の郡中品々寄では町の長さ3町24間。「啓忘録抜粋」では家数77・町の長さ2町40間。宝暦12年(1762)の町の長さは24町4間(上町・下町・天神町・坂口町・亀甲町・川久保町)、家数376・人数1,782とある。 「筑紫紀行」に「竪横の町にて人家三四百軒あり、商家多く茶屋宿屋あり」と記され、在郷町として栄え、巨勢川による水運の便も良かった。 江戸時代中期以降、櫨蝋生産が盛んになり、山林地主にもなるなどして冨を蓄積していった。そして日田の日田金に対して「吉井銀」と称された金融資本の活動でも資本の蓄積が進んだ。 財力は白壁の町並形成に現れた。しかし、洪水と大火に度々見舞われ、その都度土蔵造りなどの家構えを発展させてきたのが、今に残っている町並である。 特に明治2年の大火や、明治末期から大正期にかけて豊後街道が北側へ拡張されたのを契機に、数多くの土蔵造りの町家が建築され、吉井を特徴づける土蔵造りの町並が形成された。 こうした重厚な土蔵造りの町家は今でも約70軒程が残り、見ごたえのある町並を展開している。 妻入りの入り母屋造り、外壁を白漆喰や鼠漆喰で塗り込め、開口部には防火扉を付けた町家が建ち並ぶ重厚な町並で、関西地方の入り母屋と異なり、切り妻造りに一階も二階も短い軒を付けた様な建て方だ。 これらの重厚な町家を建てたのは明治期に成長した農村地主や製油・製蝋・酒造・製粉業を営む商人たちであった。特に酒造を営む商人の成長は著しく、今の町並形成に大いに貢献した。 白漆喰の土蔵造り、妻入りの重厚な商家の建物が続く町並は他では例のない特徴ある町並と思う。 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 別冊太陽 日本の町並U 平凡社 湯原公浩 2003年 日本の地名 福岡県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2004年 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |
吉井町の町並 |