松合集落は過っての職業によって住み分けされたような町並であった。 山裾は農家集落、海岸部には漁師集落、中間の旧富岡街道沿いには商家とはっきりと住み分けの様な形態であった。 江戸期を通じて熊本藩領であった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、肥後国主になったのは加藤清正で、寛永9年(1632)加藤氏に代わって細川忠利が入国し、手永(行政区)制度を設け、松合は松山手永に属した。 松合は立地上狭い土地に民家が密集しているため、火事のたびに大きな被害が出た。文政9年(1826)229戸、同11年(1828)269戸、天保元年(1830)315戸、安政元年(1854)141戸が火災で焼失している。 文政9年(1826)の大火後から地内救之浦新地が再築され、被災にあった人々が移住した。安政2年(1855)に漁港が整備され、水揚げされた魚は藩用に供された。文政年間(1818〜30)には魚市場見締役が置かれ、近海は勿論、天草方面からの魚も陸揚げされ、藩内第一の漁港として栄えた。 明治15年の家数694・人数3,631。であるが漁船が379隻もある。明治10年の調べで民業は、漁業500・農業125・左官12・旅籠屋5・酒造4・質屋4など各種の職業があったが、圧倒的に漁業従事者が多かった。 旧富岡街道沿いには白壁の商家の建物が建並んでいて、かっての繁栄を偲ばせている。平入りであったり、妻入りであったり、切り妻であったり、入り母屋造りであったりと千差万別であるが、どの建物をとっても、海岸部の漁師町、山裾の農村部の建物とは異なっていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62 熊本県の地名 平凡社 下中邦彦 1985年 |
松合の町並 |
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