玉名市高瀬は熊本県北西部、菊池川と繁根木川の合流点付近に位置し、両川に挟まれ古くから河湊として発展したところ。 江戸時代は熊本藩領で、湊町として発展し、肥後熊本藩五ヶ町の一つで在町として、城北地域の政治・軍事・経済・交通の要地で、町奉行が置かれていた。 菊池川に沿って運河(裏川)が造られ、町屋裏の倉庫へ直接荷物が上げ下ろしされていて、藩の蔵米や納屋物の集散地でもあった。 藩の御蔵は高瀬町の南部に14倉あり、肥後の全量の約半分がここから積み出されていた。天保13年(1842)には菊池川に面して御蔵米を船に積み込むための俵ころがし場が造られて、今でも跡地が姿と留める。御蔵米は大坂堂島市場に運搬され、肥後高瀬米として市場で高い評価を得たという。このほか納屋物の米や雑穀も集散し、主に綿を移入するなどで、深江屋をはじめ大商人が軒を連ねて問屋を営んでいた。 また、上方や領内からの荷物は、町並みに沿って、菊池川と並行に流れる裏川を利用して、直接町家裏手の石積み階段を使って白壁倉庫に入れられた。今もその時利用した石段が各町家の裏側に残る。 人数は宝暦頃(1751〜64)には屋敷数550。安政5年(1858)頃には推定2,600人程度。また安政5年(1858)の人別出銅鳥目高覚によると2,641人とある。商人が7割5分、職人が2割5分の構成であったと推定される。 江戸時代末期の絵図によると、裏川に沿って北側の道路が「本通り」で、東より上町・本町・中町・下町がある。本通りの南側の商家が裏川へ出るための石段を設けて、荷物を舟から直接土蔵に入れていたのだ。 本通りの両側には今でも伝統に守られた漆喰塗りこめの商家の建物が連なる。これらの町並みも明治10年の西南の役で焼かれた後に建てられたもので、明治期の建物が多い。そして本通りの裏を流れる裏川も、今では整備公園化されて遊歩道も造られていて市民の憩いの場となっている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62 熊本県の地名 平凡社 下中邦彦 1985年 歴史の町並み再発見 読売新聞西部本社 読売新聞西部本社 1993年 熊本県の歴史散歩 山川出版社 熊本県高等学校社会科研究会 1995年 別冊太陽 日本の町並みU 平凡社 湯原公浩 2003年 |
高瀬の町並み |
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