玉名市伊倉北方は熊本県北部、菊池川下流左岸東方、伊倉台地に位置する。 江戸期は熊本藩領、小田手永に属し、村高は「寛永郷帳」「正保郷帳」ともに1,121石余、「天保郷帳」1,342石余、「旧高旧領」2,123石余。 「肥後国誌」によると伊倉丹倍津が記され、昔、三韓入貢の港で入唐の僧など多くはここから船を出したといい、元和年間(1615〜24)以前まで唐船が着岸していたと云われる。その着岸した場所は伊倉南方村船津と伝える。 天正15年(1587)豊臣秀吉の九州仕置後、佐々成政・加藤清正の支配に属した。清正は現在の伊倉船津に流れていた菊池川本流を、大浜方面に付け替える工事に天正17年(1589)着手し、完成までに17年を要して、慶長10年(1605)に完成したという。この大改修工事によって、干拓事業は進み広大な新田が生まれたが、伊倉への船の交通は絶たれ、伊倉は港の機能を失った。 元禄国絵図には「伊倉北方之内」として、西北帳村・中北帳村・東北帳村・唐人町が記され当伊倉北方村は見えないが、「国誌」によれば伊倉北方村は高289石余、「里俗中北帳村ト云」とあり、前記4町村はいずれも「北方村ノ内」と注記されている。 「郡村誌」によると、明治11年頃の家数338・人数1,436、牛2・馬123。民業家数は農業180・素麺職17・大工職11・穀物屋7・質屋5・桶具職4、畳職・旅籠屋・酒受売屋各3……とあり農村集落であるが地域経済の中心地だった。 町並みを歩いていると「下地中分線」という立て看板を見つけた。鎌倉時代、地頭と領主との間に領地の争いが起こり、幕府の采配で荘園の中央に直線を引き、約600mの道を境に北方と南方に分けた。これを「下地中分」という。その下地中分の道がそのまま商店街になったという珍しい所との説明があった。 伊倉北方側には多くの伝統的様式で建てられた家屋が残っているが、伊倉南方側(今は宮原)には伝統的な様式の家屋が殆ど見られない不思議な町並だった。偶然なのか、火災のためにこの様な町並になったのだろうか、どうしてだろうと思いながらの町並探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62 熊本県の地名 平凡社 下中邦彦 1985年 「くまもと歴町50選」 WEB書籍 熊本県 2013年 |
伊倉北方の町並 |
伊倉北方の町並 |
伊倉北方の町並 |
伊倉北方の町並 |
伊倉北方の町並 |
伊倉北方の町並 |
宮原の町並 |
伊倉北方の町並 |