竹富町竹富島の町並み 
西・東・仲筋
地図


なごみの塔からの集落風景

竹富町の別画像(2014.04.16)

 沖縄県の竹富島は、日本の最南西端の南西諸島の一番南西の端近く、西表島と石垣島の間、石垣島の沖合い南西約6kmの海上に浮かぶ周囲8km余りの平坦な小島である。
全島ほとんどが隆起珊瑚礁からできていて、水に恵まれず農耕地としては適地でなく、島には水田がないが江戸時代には米納が義務づけられていたため、西表島まで行って米を作っていた。集落は島の中央部よりやや北寄りに発達し、赤瓦の屋根、屋敷にめぐらされた石垣、白い砂を敷き詰めた道路、緑の木々などの島の風景が訪れる者の心をとらえる。
竹富郵便局の建物も、町並みに合わせて石垣を積み、赤い瓦を漆喰で塗り固めた寄棟屋根の平屋建で、正面の屋根には魔除けのシーサーが一匹こちらを睨んでいた。
竹富島は港などを除けば海岸線には家がなく、砂浜のぎりぎりのところまで植物が茂っている。台風の通過地点だからこうなるもの当然だろう。高さ1.5mばかりの黒々とした珊瑚石を積んだグック(石垣)で囲われた民家が整然と並ぶ。これも風対策のようだ。
門は扉がなく開けっ放しで、中にマイヤシ(沖縄本島ではヒンプン)と呼ぶ目隠しが立っている。マイヤシは石積みだったり生け垣だったりだ。主屋はその向こうにある。伝統的な建物の配置は門を正面にすると、右手にフーヤと呼ぶ田の字四部屋型の主屋があり、左手はフーヤより少し小さいトーラと呼ぶ土間の台所部分がある二棟造りだ。現在では台所がフーヤに移されていることが多く、トーラは物置などに利用されている。
フーヤ(主屋)の前に庭、後ろに菜園があり、これらの周りをグック(石垣)や屋敷林が囲む。建物の伝統的様式は、漆喰で固めた赤瓦葺の寄棟造り、木造平屋建で、外壁には木板を張り、木板雨戸を付け、軒は低く大きい。屋根には魔除けのシーサーがこちらをにらんでいる。シーサーは中国由来の魔除けでなかなかユーモラスである。雄一匹か、雄雌のペアーがいるが、中には3匹もいた家もあった。シーサーは魔除けに屋根にあるのだが、屋根裏の熱気を抜く換気孔の雨除けの働きもしている。
白漆喰で塗固めた赤瓦の屋根の漆喰もしばらくは白色をしているが数年もすれば黒くなってしまうようだ。屋敷内と幅4m位の道々に敷き詰められた白砂がきれいだ。
竹富島の町並みには他にオン(御嶽)、村カー(共同井戸)、石敢当などがある。中でも神を祀る拝所であるオンは島内に28ヶ所を数え「種子取り祭」(重要無形民俗文化財)をはじめとする祭事の舞台となるとともに、島民の共同体意識を養うのに役立ってきた。
また、村カーは近年まで島民が命の水として維持管理してきた大切な井戸で、いまなお聖域として崇めている。石敢当はT字路の突き当たりに立てられた災厄払いの石柱のことで、竹富島の場合は沖縄本島と違って無字の石敢当が多い。
竹富民芸館では伝統織物の「ミンサー織」に出会える。およそ350年前から伝えられるミンサーとは、木綿糸を藍で染めて織った幅約8cm、長さ3.3mほどの紺かすりの角帯のことだ。その昔「いつの世までも末永く仲睦まじく」の意味を込めて、女性自ら織ったものを、プロポーズを受けた男性に贈ったとされる。
竹富島には「竹富島憲章」がある。美しい島を守り生かすため「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」という五つの基本理念を明らかにして、町並みを守っているので、現在では沖縄に残された唯一の貴重な沖縄の原風景である。
離島のためか竹富町役場は、竹富町の主島である竹富島になく、石垣島の石垣市にある。これは昭和13年以来のことで離れ島の苦しみを象徴している。また水の心配は昭和51年になって石垣島からの海底送水が実現したので無くなったが、稲作は行われていない。
町並み指数 80
参考文献   
  沖縄県の歴史散歩  山川出版社  沖縄歴史研究会  1996年 
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  歴史の町並み事典  東京堂出版  吉田桂二  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和61年

生垣のマイヤシのある家

観光客を乗せた水牛車

石垣のマイヤシのある家

町並

町並

シーサー
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