竹富町波照間は沖縄県の八重山諸島の最南端に位置し、石垣島から南西海上約42km、有人島としては日本最南端の島である。 波照間島の「両島絵図帳」では「はてるま嶋」とみえ、「あかた」・「おふす」……などの12か村。崇禎元年(1628)の三間切制移行時までに、波照間島は波照間村・平田村・あらんと村に統合され、三間切制移行時の村の書き上げに、宮良間切はてるま村と見える。乾隆33年(1768)からは大浜間切のうち。康煕17年(1678)波照間・平田両村を合わせて波照間村とし、一島一村となった。 順治8年(1651)の人数は波照間村298人・平田村318人で、あらんと村の名は見えない。乾隆2年(1737)の人数は1,144(波照間村636・ 平田村210・宇保川村298)で、村番所は波照間集落にあった。 乾隆36年(1772)の明和の大津波まで集落は海岸近くに立地していたが、津波後に島の中心の現在地に移動した。人数・家数は明治13年126・623、明治36年131・794。 明治以降の生業は稲作・サツマイモ栽培やサンゴ礁での漁労であったが、大正初期から発動機船によるカツオ漁が盛んとなった。 第2次世界大戦中に西表島に強制疎開させられ、殆どの人がマラリヤに罹り、戦後の食糧不足・マラリヤ・農水産業の不振、相次ぐ台風と干害で島の経済は混乱が続き、生活改善と行政改革で多くの伝統的な年中行事が廃止されたため、民族芸能や古謡も多く失われてしまった。 波照間港から電動自転車で集落に向かう。途中に製糖工場があり、この島の主産業のサトウキビで黒糖を造っているそうだ。 港から集落に向かう道路は大変立派なものであるが、人も車も殆ど通らない。集落内には大きな道路が通り、その道路に交差して多くの枝道が規則正しい碁盤目状になって繋がっている。フクギが多く植えられ集落内の民家はフクギで強い風から守られている。 また、波照間は琉球石灰岩の石垣が多く、フクギと相まって見事な沖縄らしい光景を展開している。 町並としては見事な石垣とフクギの町並で、その奥に平屋で赤瓦を乗せた寄棟の開放的な沖縄独特の建物が控えている。目隠しのヒンプンが有る家も少なく、また魔よけのシーサーも少なかった。 赤瓦は漆喰で塗り固められている。その漆喰が時と共に風雨に曝されてくろずみ、独特の風情を醸し出し、沖縄独特の集落風景を展開していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典、編纂委員会 昭和61年 日本の地名沖縄県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2002年 |
波照間の民家 |
波照間の町並 |
波照間の民家 |
波照間の民家 |
波照間の町並 |
波照間の民家 |
波照間の町並 |
波照間の町並 |
波照間の民家 |
波照間の民家 |
波照間の民家 |
波照間の民家 |