「荒城の月」で有名な岡城跡がある竹田城下町は周りを山で囲まれた小さな盆地の中にある。どちらの方向に城下町から出るにも入るにもトンネルを通らねばならない。 文禄3年(1594)中川秀成が岡城に入ると同時に、岡城(居城)の拡張、城下町の整備をはじめた。 志賀氏の時には城の北に大手門があり、十川村・挟田村に城下町があったが、中川氏は大手門を城の南西に持ってきた。そして竹田村を城下町として整備した。城下を東西五条・南北三条の町割をし、旧城下の十川・挟田から商家を移し、竹田村の西方にあって宿場町として栄えていた玉来から商家53軒を移し、城下町を造った。 一般には城を取囲むように城下町が形成されるが、岡城の場合は城から1km以上も離れ、城から城下町が見えないし、城下町からも城が見えない。 町の東側に武家屋敷が設けられ、殿町・上殿町と名づけられ、上級武士の屋敷が置かれた。 「豊後国志」では、上町・田町・新町・本町・府内町・代官町・魚町・古町・下町などの町が記載されている。盆地上に成立した町のため、住家も制限され、俗に「竹田千軒」と称された。 江戸中期の町屋は280軒であったが、天保13年(1842)には557軒に増加している。この時には本町176軒・844人、上町78軒・282人、田町74軒・293人、新町117軒・407人、府内町68軒・276人、古町64軒・336人、他に9軒・人数不明である。 元和5年(1619)に大火があり、藩では町屋の屋根を茅葺きから板葺きに改めさせた。寛文2年(1662)には全ての町屋を板葺きから瓦葺きに改めさせ、土蔵は全て漆喰塗りにするよう命じている。その後も宝永6年(1709)には殿町が全焼、正徳3年(1713)には竹田町全部が焼けてしまい、享保4年(1719)には城下町の出火に関する規定を定め、防火対策を講じている。 明治10年の西南戦争でも、城下町の1,500戸が焼失し、第2次大戦では戦災を免れたが、昭和22年に町の中心街が全焼する大火に見舞われている。 度重なる大火によって町中の古い建物は残っていない筈だが、伝統とは凄いもので、町中には伝統的な商家の建物が各所で連なっている。白漆喰の塗り込めの中2階建てや2階建て、妻入りや平入りで切り妻造りの建物だ。特にこの町では白漆喰の建物が目立つようだ。 殿町の武家屋敷群では電柱が取除かれていて、照明の柱も無いので、江戸時代の雰囲気が漂い、素晴らしい武家屋敷の風情を残していた。 大分県の歴史散歩 山川出版社 大分県高等学校教育研究会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55 大分県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 歴史の町並再発見 葦書房 讀賣新聞西部本社 1993年 |
旧上本町の町並 |
旧田町の町並 |
旧田町の町並 |
旧本町の町並 |
旧本町の町並 |
旧上町の町並 |
旧上町の町並 |
旧上町の町並 |
旧殿町の町並 |
旧殿町の町並 |