玉来は肥後への交通の要衝として、14世紀頃には既に数十軒の町屋が並ぶ宿場町になっていた。そして志賀氏房が14世紀半ばに飛田川の騎牟礼城に入ったことから、騎牟礼城の城下町的性格が加わり一層発展した。 しかし文禄3年(1594)中川秀成が岡城に入り、城下町の建設時に、玉来の商家53軒が竹田城下に移動させられた。この商人の移動と、竹田城下町の発展とともに玉来は衰退したが、藩は京都の島原・長崎の丸山を模して遊郭をおいて繁栄を図った。寛文4年(1664)の大火災で商家は残らず焼失し、その後一筋の街が再興されたという。 明治9年には家数178・人数947であった。 今は江戸末期・明治期・大正期に建てられた伝統的な様式の商家の建物が点在している。切り妻造り中2階建てで、白漆喰塗り込め虫籠窓のある商家の建物だった。 この町並は予定して訪ねたのではなく、通りかかって偶然に見つけた町並ですが、白漆喰壁の町並として後世に残して欲しい町並だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55 大分県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |
玉来の町並 |