高鍋町高鍋は宮崎県の中央部、北の小丸川と南の宮田川に挟まれた中央部に位置する。 江戸前期の寛文年間以前は財部(たからべ)と云っていたが、寛文9年(1669)に3代目高鍋藩主秋月種信が財部城を改築した際、高鍋と改めたという。江戸時代は高鍋藩領。 3代目藩主秋月種信の時代には、城郭や城下町の整備が進められた。城下町は南北に走る一筋町で、北から松原町・本町・上町・八日町・六日町・十日町・下町の七町が並び、上町と八日町の境から上横町が、十日町と下町の境から下横町がそれぞれ東方向へ延びている。松原町の北端から西に曲がると洗井町となり、以上が町地であった。 そして松原町の北には小丸や宮越の中・下級武家屋敷があり、六日町・十日町の東には石原や蓑江の中・下級武家屋敷がある。更に六日町・十日町の西側は城郭の大手門外の縦筏・横筏となっていて上級武家屋敷があった。 このように町地の両側を武家屋敷で固めたような城下町であった。 城下の人口などを知る資料はないが、寛政4年(1792)高鍋町を訪ねた高山彦九郎は「筑紫日記」に「二百五十軒斗り南北町也」と記している。 高鍋城跡は舞鶴公園となり、その東側の三ノ丸跡に高鍋農業高等学校があり、高鍋農業高等学校の正門のすぐ先に高鍋図書館がある。 この辺りが筏と呼ばれている地域で上級武士の屋敷が連なっていたところで、図書館の横の通りを北に向かう道の両側に上級武家屋敷だったと思われる町並みが色濃く残っている。 図書館から東に約200m進むと南北に通る一本の道路に出る。この道が藩政期の町人町の中心道路で、特に上町から下町にかけてが商業の中心で、今でも僅かだが当時の名残がみられ、商家建物と思われる家屋も見られる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61 宮崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1997年 宮崎県の歴史散歩 山川出版社 宮崎県高等学校社会研究会歴史部会 1990年 |
高鍋町高鍋の町並 |
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高鍋町高鍋の町並 |
高鍋町高鍋の町並 |
高鍋町高鍋の町並 |
高鍋町南高鍋の町並 |
高鍋町南高鍋の町並 |
高鍋町南高鍋の町並 |
高鍋町南高鍋の町並 |
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