塩田町の町並み
塩田・南下久間
地図


塩田の町並み
 江戸時代、塩田は長崎街道の宿場町、また塩田川を利用した川湊町として栄えていた。
寛永16年(1639)鍋島直澄が蓮池藩を創始し、塩田地方は蓮池領となった。慶長国絵図には塩田町がもう町場として描かれている。塩田集落は、陸上交通の長崎街道の宿場町と海上交通につながる塩田川の川湊として発展し、元文3年(1738)の郷村帳には札馬と高札場が記されている。また、蓮池藩の頭人役所も置かれて、当地方の政治・経済の中心地であった。文政13年(1830)には125軒の家があった。
元禄4年(1691)のドイツの医師ペンケルの「江戸参府紀行」によると、当地では非常に大きな壷が焼かれ、水瓶として使われているが、東に果てしなく続く平野を流れて島原湾に注ぐ川があるので、壷は船で他地方に移出され、木材を積んだたくさんの船がいた、と記されている。
長崎街道は塩田川による水害の多発と増水時の渡河の困難さから、江戸後期の享保期頃(1716〜36)から塩田川を離れた武雄・嬉野まわりの彼杵通が開かれ、次第に塩田宿の重要性が減少してきた。だがその後も川湊としては繁栄し、天草陶土の陸揚げや大坂への米直送、藩船の蓮池への直行など重要な役割を果たしていた。
このように塩田町は長崎街道の宿場町と塩田川の水運を利用した物資の集散地であったので、大規模な商家の建物も残っている。
江戸時代末期から明治初期に建ったと思われる建物も多く残っている。居蔵造りの商家の重厚な建物が連なり見ごたえのある町並である。2棟並んで妻を街道に向けた建物に一つの庇を付けたような建物や、平入りの建物の奥から丁字型に棟を突っ込んだような(福井県にあるカグラ造りのようなもの)建物があったりと、町並を構成する一つ一つの建物も特徴ある建物が多く、バラェティのある町並景観を作っている。
この町は町並保存には積極的で、塩田町教育委員会が塩田伝統的建造物群保存対策調査報告書や長崎街道塩田宿のボランティアガイドの養成のための書籍まで発行されている。町並を歩いても軒先に塩田宿と書かれたタペストリーが各所で揚げられていた。また、ひと際大きな建物で国の重要文化財に指定されている西岡家住宅もあった。
町並み指数   50 
参考文献
  佐賀県の歴史散歩  山川出版社  佐賀県の歴史散歩編集委員会  1995年
  別冊太陽日本の町並U  平凡社  湯原公浩  2003年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会
  日本の地名佐賀県  平凡社  下中邦彦  1980年


南下久間の町並み

南下久間の町並み

南下久間の町並み

塩田の町並み

塩田の町並み

塩田の町並み

塩田の町並み(手前が国の重要文化財西岡家住宅)

塩田の町並み(手前が国の登録文化財の杉光家住宅)

塩田の町並み(札の辻辺り)

塩田の町並み
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