島原市は島原半島の東部に、白土町は島原城の南に位置し、江戸時代は島原城下の一町であった。 湧水で有名な白土湖のある町で、白土湖は「水の都・島原」のシンボルである。寛政4年(1792)の大地震「島原大変・肥後迷惑」の時に陥没して出来たもので、それ以後今も湧水を音無川から有明海に流し続けている。 島原市の概略歴史は別の項目の「島原市武家屋敷」で記載しているので、ここでは省略するが、寛永4年(1627)の記録では、城の北側に武家屋敷、城東から城南にかけて町屋が割られている。城の南東から東にかけて入江があり、入江の入口近くに船湊があった。城西も武家屋敷だが下級武士の集住地で鉄砲町又は足軽屋敷と称していた。 島原半島の一集落にすぎなかった島原地方は、藩主松倉重政の築城後半島の政治・経済・文化の中心地となり、町屋の長さは南北13町で、家数約1,000軒にもなった。城東の商人地には有馬町・三会町・中町・片町・宮の町・田町があり、大手川より南には桜町・古町・白土町・白土船津町と続き、更に下手には万町・古町・新町・風呂屋町・魚町が連なっていた。当時の町の大きさは、久留米・平戸と同じであり、大村・唐津よりも大きかった。 人数も延宝2年(1674)には6,349人であったが、宝永年間(1704〜11)には7,110人となり、家数も1,880を数えた。 島原の産物は櫨である。これは寛永14年()に起こった「島原の乱」で荒廃した領内の産業を発展させ、藩財政を立て直すため、換金作物として櫨の木の栽培を、藩主松平忠房が奨励したことに由来している。 その後の藩財政の重要な柱となった。 訪ねたのは、旧島原街道に沿って展開している白土町の町並みである。平入り切妻又は入母屋造りで、九州北部に多い白漆喰塗込めで妻入りの家屋は少ない。伝統的な様式で建てられた重厚な町家が点在するも連なってはいなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 日本の地名長崎県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2001年 歴史の町並再発見 葦書房 讀賣新聞西部本社 1993年 長崎県の歴史散歩 山川出版社 長崎県高等学校教育研究会 1996年 (別冊太陽)日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 |
白土町の町並み |
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