島原半島、雲仙普賢岳の噴火とそのときの土石流・火砕流の記憶はなまなましい。その雲仙普賢岳の東側に島原市があり、湧水の多いことでも知られている。 日野江城を居城としたキリシタン大名の有馬晴信は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後も旧領を安堵されたが、慶長17年(1612)岡本大八事件で失脚、同19年(1614)その子の直純が日向延岡に移封され、当地は一時幕府領となった。元和2年(1616)松倉重政が入封し、今までの日野江城から島原に城を移す計画し、元和4年(1618)から城と城下町を建設した。 寛永14年(1637)に島原の乱が起こり、その責任を問われ松倉氏は改易され、翌寛永15年(1638)新たに高力忠房が入封した。その後寛文9年(1669)松平忠房が入封しそのまま明治を向える。 寛永4年(1627)の筑前筑後肥前肥後探索書によると、城の北側に武家屋敷、城東から城南にかけて町屋が割られている。城の南東から東にかけて入江があり、入江の入口近くに船湊があった。町屋は南北13町で、家数約1,000軒。城西も武家屋敷だが下級武士の集住地で鉄砲町又は足軽屋敷と称していた。 島原半島の一集落にすぎなかった島原地方は、築城後半島の政治・経済・文化の中心地となった。 今、武家屋敷として残っているのは城の西手で、かって鉄砲町と呼ばれていた下級武士の屋敷地である。城に近いほうから江戸丁・下ノ丁・中ノ丁・古丁・下新丁・上新丁とあるが、元治2年(1865)の島原藩屋敷図と全く同じである。南北に6本の平行した道路があり、間口6間、奥行き15間程度の短冊形の敷地が規則正しく並んでいる。 かっては南北に走るどの通りにも、その中央に湧水の清水が流れ飲料水に充てられ、日に3度川奉行が巡見を行っていたそうだ。寛文9年(1669)の造設で、寛文12年(1672)には中ノ丁から上ノ丁に通す水路に瓦を伏せたという。 今は下ノ丁にだけその形跡が残っている。他は水路が片方に寄せられたり、暗渠化されたりしている。 残っている武家屋敷の主屋や門も少なくなっているが、町割りは当時のまま残っているようである。この武家屋敷の見どころは道路に面して連続した石垣である。これだけ連続した石垣の武家屋敷も珍しいと思う。この連続した石垣も下ノ丁だけに限らず、付近一帯の武家屋敷の町並によく残っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 日本の地名長崎県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2001年 歴史の町並再発見 葦書房 讀賣新聞西部本社 1993年 長崎県の歴史散歩 山川出版社 長崎県高等学校教育研究会 1996年 (別冊太陽)日本の町並V 平凡社 江田修司 2004年 |
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