志布志町志布志・帖は鹿児島県南東部、南面する志布志湾のほぼ中央に位置し、南西諸島から沖縄へと直結、南大隅から日向地方の藩米を集荷輸送する行政的条件により、志布志港は藩政時代を通じて栄えていた。大坂蔵屋敷へ藩米を輸送する大型船をはじめとして、多くの小型船や漁船などがあった。船数は宝暦11年(1761)の記録では大型船13艘、17艘は5枚帆で船数が86艘とあり、だいたい100艘内外の船が交易・漁業に従事していた模様で、志布志千軒と云われるほど発展していた。 江戸時代には薩摩藩の外城制の地頭館(仮屋)(現志布志小学校)が帖村にあったが、藩政初期に常駐した地頭が中期以降になると鹿児島城下に居住するようになり、名目だけの掛持地頭であった。 志布志郷は日向高鍋藩櫛間(現宮崎県串間市)と隣接する藩境の要地で、夏井番所・八郎ヶ野番所・辺路番所が置かれていた。 やがて志布志村は港を中心として発展している商業区・大慈寺門前の町畠村と農村・麓集落の帖村に分村している。その時期は明らかでないが、「三州御治世要覧」には延享(1744〜48)頃の帖村1476石余りと並んで町畠村504石余りが記載されているので、その頃に分村したのであろう。 宝暦11年(1761)の幕府巡見使への答書に、帖村は志布志衆中として家内409家、男1,145人・女882人、更に帖村家内55家、男165人・女115人とあり、町畠村は志布志村之内町として家内404家、男855人・女623人、さらに門前として家内144家、男312人・女215人とある。 伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では志布志村の家数550、うち浦町498、本村40、枝柳井谷村8、他に郷士309とある。 幕末のものと考えられる「志布志12ヶ村門付帳では、帖村は家部数36・人口204。町畠村は家部数420・人口1,362とある。 訪ねたのは都城市から国道222号線と県道65号線で志布志町に入ったのであるが、町中に入る直前に武家屋敷の麓集落を通る。 帰りにこの麓集落を撮影せねばと思いながら、志布志1丁目辺りに車を停めて、町並み探索を行った後、鹿児島市内まで帰るのに気を取られ、麓集落を訪ねるのを忘れてしまって残念なことをした。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61 宮崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1997年 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |
志布志町志布志1の町並 |