鹿児島藩の外城の一つ入来麓は、中世・近世の麓の形態をよく残した集落です。 鎌倉時代中期、宝治元年(1247)に関東の渋谷一族が、薩摩郡一帯の地頭として入部して以来、当地域は渋谷入来院氏の領地であった。 その後薩摩の島津氏が勢力を拡大し、島津貴久と入来院重嗣が対立していたが、永禄12年(1569)入来院重嗣が島津貴久に降り、本領の清敷のみが改めて入来院重嗣に安堵され、領地の大部分は島津氏の領地となった。 文禄3〜4年(1594〜95)の太閤検地後、入来院重嗣が大隈国湯之尾(現菱刈町)に移されると、入来院の領地は島津氏領となった。慶長18年(1613)入来院重高は清敷に復封したが、当地には島津氏直臣団が多数残留していて、復帰してきた入来院氏家臣団との紛争が絶えなかった。 そこで万治2年(1659)、鹿児島藩は清敷の地を分割し、浦之名村・副田村を入来として入来院氏の私領とし、島津氏家臣は隣接する塔の原村に移し、近くの村々を加えた六ヶ村でもって清敷郷とした。 正徳3年(1713)頃の入来は、家中士236、用夫153・野町用夫56であった。 又、「薩藩政要録」では文政9年(1826)で家中士惣人数1,080、内家中士人体440、用夫259・野町用夫46。 領主仮屋は中世の清色城の跡に置かれ、周囲に郷士住居約200戸の麓が形成されていた。領主本宅は鹿児島城下に設けられ、麓の治政は家老数人からなる役人が当たった。 歴代領主は中世以来の家臣数が多い割には知行高内にしめる家中士高の割合が少ないため、家中士の耕地を増やすため新耕地の開発が推し進められた。郷内の家中士・農民ともに農業に従事し、商家は野町に約30戸あっただけで、下級士は大工・左官・木挽等の職人や下男等になる者も多かった。 今の入来小学校が領主仮屋があったところで、仮屋馬場から清色川までの直線街路など、計画的な街区がよく残っている。連続した石垣や生垣、武家門、武家屋敷、武家住宅、石の土蔵、樹木などで麓の町並を形づくっている。 中でも連続した石垣・玉石垣は見事なもので、手入れの行き届いた生垣や植木と共に、ここまで維持・管理されたことに驚きを感じる。何時までも残って欲しい麓集落であった。 鹿児島県の歴史散歩 山川出版社 鹿児島県高等学校歴史部会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 鹿児島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1998年 歴史の町並再発見 葦書房 讀賣新聞西部本社 1993年 |
浦之名の町並 |
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