里町里は九州本土と甑島海峡を隔てて東シナ海に浮かぶ甑島列島中、北端にある上甑島の東部に位置する。 里町里はトンボロと呼ばれる陸繋砂州で出来た特殊な地形で、その上に集落が発達していることで、地理学上世界的に有名な所である。このトンボロは長さ1.5km、幅200〜400mの砂州で二つの島を繋いでいて、その上に集落がある。 文禄4年(1595)甑島の地は島津氏直轄領となり、曾木甚右衛門・酒勾兵右衛門が代官であったが、慶長16年(1611)から薩摩藩では外城制度の地頭政治が始まり、甑島には里村・手打村・中甑村の3ヶ所に地頭館(地頭仮屋)が置かれ、地頭は3ヶ所を移動しながら治政にあたった。 里村の地頭仮屋は現里小学校の校庭に置かれた。 享保10年(1725)の検地名寄帳によると、男218・女209・馬36・船7艘・網12張とある。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では文化7年()の家数167とある。 現里港の南港に津口番所、遠見山には遠見番所が置かれていた。その他に火立番所もあったようで、元禄国絵図には湊の南側に異国船番所、北側に異国船遠見番所の記載がある。 亀城跡が現里小学校の背後の小丘陵にあり、中世小川氏の本拠とされる。亀城跡から南200mの小丘を鶴城といい、甑隼人の居城と云われている。 以上は里町里(村西地区)の解説と同じです。 武家屋敷の麓集落は里の村西と呼ばれる地域にありますが、ここでの里の薗中は砂州トンボロ上の里の中心集落です。 村西地域の武家屋敷と同じように玉石垣を積んで生垣にした所も多いですが、村西に較べて山が近くまで迫っていない分、開放的な雰囲気が漂います。 海岸にも玉石垣を積んで防潮堤にし、その海側には松が植えられて防風林として、風と砂から集落を守っている。 石垣を積んだのは武家屋敷に習ったこともあるでしょうが、何よりも風が強いための防風対策としての要素が大きいのでしょう。ここでも麓集落同様に玉石垣がきれいに手入れされているが、石垣の積み方から麓集落よりも後の時代に積まれたようで、多くは第2次太平洋戦争後に積まれたように思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 鹿児島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1998年 |
里町里(薗中地域)の町並 |
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