薩摩川内市街は鹿児島県中央部より北西寄り川内川の下流部で、隈之城は薩摩川内市街(向田)の南約3km程のとここに位置する。 江度期は鹿児島藩直轄領、外城の一つで、宮里村・東手村・西手村から成っていた。初め西手村二福城付近に地頭仮屋がおかれ、その周辺に武家屋敷の麓が形成された。慶長年間(1596〜1615)に地頭仮屋が隈之城麓から向田(現薩摩川内市中心部)に移され、川内川流域から集積される年貢米を収蔵する御蔵も向田に設置された。そしてその近辺の薩摩街道沿いに商家・旅館が軒を連ね次第に町場が形成され、向田は川内地方の政治経済の中心地となった(向田は最初宮里村に属していたが、のち、東手村に属した)。 正徳3年(1713)頃には衆中惣人数738人、うち衆中人体190人、用夫347人・浦用夫103人。延享(1744〜48)頃の衆中惣人数837人、うち衆中人体271人、用夫474人。文政9年(1826)には郷士惣人数956人、うち郷士人体361人、用夫771人・浦用夫371人。 隈之城小学校の南側の小高い丘の上に二福城跡がある。その二福城跡の西側から北西側一帯に武家屋敷の麓集落が展開している。 江戸初期に地頭仮屋が向田に移り、向田が政治経済の中心地として発展したが、麓集落はそのまま残り現在もその姿を見ることができる。只、明治期に整備された国道(現県道313号線や336号線)などで麓集落が分断されてしまったり、その後の開発や建て替えなどにより、大きく姿を替えたが、かっての麓集落武家屋敷の石垣や門を数多く見ることができる。 参考までに、隈之城から地頭仮屋が移ってその後、川内地方の中心地となった向田にも、古い町並みが無いかと訪ねたが、武家屋敷の麓も薩摩街道沿いにも古い町並みは見いだせなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 鹿児島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1998年 |
![]() 隈之城町の町並 |
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