佐世保市江迎町長坂は長崎県北部に位置し、江迎湾の最奥部にある典型的な湾頭集落である。江戸期は平戸藩領で長坂村と云うが、慶長9年(1604)の平戸領惣目録に江迎村、寛文4年(1664)の松浦鎮信領知目録にも江迎村とあり、明暦2年(1656)の田方帳抜書には江迎長坂村とある。幕末から明治初期に江迎村に合併されたとあるが、正式には明治22年の町村制施行に伴い長坂村・猪調村が合併して江迎村が成立したようだ。 平戸藩において街道・宿駅の制度が設けられたのは藩主松浦鎮信の慶安年間(1648〜52)頃である。江迎村には平戸往還が通り、江迎宿が置かれていた。また、近郷の年貢米を回漕するための米蔵が置かれ、この地の物資流通の中心地になっていた。 幕末になり異国船の沿岸出没が盛んになり、長崎の警備を命じられてからは平戸・長崎間を頻繁に往来した。そのため江迎本陣も藩主の宿泊にふさわしく整備されていった。それが現在にその姿を残す清酒本陣の山下庄左衛門家である。元禄年間(1688〜1704)頃から酒造を始めているが、それ以前は平戸藩の浦々を取り締まる七浦奉行を勤めていた。 明治2年から同7年の間に江迎町域で11ヶ所の炭鉱が開かれ、明治40年の稼行炭鉱は15ヶ所にもなっていた。そして住友潜竜炭鉱が昭和8年より、昭和10年より日窒江迎鉱業所が開設され、江迎は炭鉱の町に変貌した。しかしエネルギー需要の変化により昭和41年〜45年にかけて殆どの鉱山が閉山してしまった。 今、古い町並みが見られるのは、清酒本陣(山下家)を中心としたところだけになっているが、豪壮で大きな本陣建物が見るものを威圧し、隣の酒造部分にはレンガの煙突が目を光らしているように立っていた。ただこの清酒本陣辺りの平戸往還は国道204号線となり、車の通行が多く町並み観賞もままならないのは残念に思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 長崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2001年 |
江迎町長坂の町並み |
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