佐伯市市街地は九州の東端、大分県の南東部、北東には豊後水道・佐伯湾に面した番匠川の河口左岸、デルタ地帯に立地していて、港町や軍港として推移してきた。大入島が天然の防波堤となることから、立地条件に恵まれて古くから良港として栄えていた。 慶長6年(1601)佐伯に入封してきた毛利高政によって佐伯藩二万石が成立した。八幡山の山頂に佐伯城の建築がはじまり、番匠川のデルタ地帯に城下町の建築が進められた。番匠川河口の複雑な流路を利用して内堀に、本流路を外堀にあてて城下町の整備が行われていたが、元禄12年(1699)六代藩主として入国した毛利高慶が城下の整備を強力に推し進めた。当初の城下町は武士・商人・百姓などが混住していたが、宝永2年(1705)及び元文元年(1736)の大火を機に、城下にあった全農家を塩屋村中村に移転させ、武士屋敷と町人町を定めた。その後も大火により度々町割りの変更を繰り返した。 19世紀初頭には武家町として西谷小路・新道小路・新小路・本町・鉄砲町・片町……で、町人町として内町に上中町・上古市町・上中島町・横町・土井町、船頭町に上住吉町・戎町・中野町・鍛冶町・浜町があった。内町・船頭町は共に町人町で、両町と称されていた。 文化7年(1810)の家数・人数は家中339・1,672。両町219・1,004とある。文政9年(1826)当時は家中のうち給人49軒・中小姓45軒・徒士40軒・御目見格60軒・足軽以下152軒。内町町人屋敷190軒・船頭町142軒とある。 安政2年(1855)の家中分限帳によると、家臣672軒、うち給人107軒・中小姓83軒・徒士54軒・足軽120軒・船頭水主36軒・その他128軒。 城下の商業地域となったのは内町と船頭町であって、文化7年(1810)この両町には219軒の町家が建ち並んでいた(前述)。後背地に遮られ陸上交通が不便なことや、海岸線が長かったことなどが関係して、海上交通や漁業に重点が置かれ、瀬戸内海を通じて上方との交易も盛んだった。 山裾に「歴史と文学の道」と名づけられた道「山際の道」がある。日本の道100選に選ばれた道だ。約1km程の区間だが石畳み・背の低い白漆喰の土塀が山側のみに続く武家屋敷の町並。そんな中に国木田独歩が下宿していた坂本邸も見られ公開されていた。この山際通りが開放的なのは石畳みの道幅が広いのと、白漆喰の土塀が低いからだろう。 一方町人町の船頭町には造り酒屋さんを筆頭に、木造の伝統的な様式の家屋も散見できた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 大分県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1995年 歴史の町並み再発見 読売新聞西部本社 読売新聞西部本社 1993年 大分県の歴史散歩 山川出版社 大分県高等学校教育研究会社会部会 1997年 別冊太陽 日本の町並みU 平凡社 湯原公浩 2003年 |
船頭町の町並 |
船頭町の町並 |
船頭町の町並 |
船頭町の町並 |
船頭町の町並 |
船頭町の町並 |
山際通りの町並み |
城下東町の町並 |
山際通りの町並み |
山際通りの町並み |