佐賀市は県南東部、佐賀平野のほぼ中央に位置する。低平な佐賀平野(海抜4m)の中に慶長7年(1602)から同16年にかけて竜造寺城(佐賀城)が、その東に蓮池城が造られ、城下町も形成された。蓮池城には実権を握っていた鍋島直茂が一時住んだが、元和元年(1615)の一国一城令により取り壊され、その材木や瓦は佐賀城の本丸や二の丸に移築された。 城郭内には藩主の一族や重臣たちの屋敷が、城内及び北堀端・中小路・八幡小路・城東の水ヶ江一帯・西堀端・南堀端・水ヶ江東部にある町が武家屋敷に割り当てられた。町人町としては下今宿町・紺屋町など三十三町が町方支配の町として寛政期(1789〜1801)の郷村帳に記載されている。 さて、今回訪ねたのは佐賀市内の長崎街道沿いの八戸の集落です。江戸時代は八戸宿といわれていた地域で、郷村に属する宿として扱われていたところ。 寛政元年(1789)の幕府巡見使へ報告された城下三十三町には町名は見えないが、文化年間(1804〜18)の御城下絵図や嘉永7年(1854)の竈帳には町名が見え、江戸後期に佐賀城下町に編入されたようだ。 佐賀城の西に位置し、長崎街道が東西に通り、町筋は街道に沿って展開する。城下の西入口に当たるため番所が置かれていた。 嘉永7年(1854)八戸宿竈帳の総竈数(家数)174・人数825。身分は侍2・手明鑓5・家来5・徒士9・中小姓3・足軽62・職人4・被官12・その他の有姓者1・僧2・町人63とある。職業で見ると大工8・日雇い5等で、宿と云っても旅籠屋などの宿泊施設は無かったようだ。 この旧長崎街道は今の国道207号線の北側一筋目で、街角の案内板に「鋸の刃状の町並」と紹介されていて、一部の所で建物が道路に対して斜めに建てられていた。敵から身を隠すための方策との説明がなされていた。 この八戸の町並みはバラエティのある町並みで、九州北部に多い妻入りもあるが、間口の広い平入りやくど造りの茅葺屋根の家、切妻造りや入母屋造りの家が入り混じった町並みであった。又、白漆喰に塗り固められた家屋も有るが、板囲いで格子の家屋も多く見られた。 佐賀県の歴史散歩 山川出版社 佐賀県の歴史散歩編集委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 佐賀県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
八戸一丁目の町並み |
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