苓北町富岡は天草灘に臨む天草下島の北西端に突き出た志岐崎半島に位置する。 江戸はじめは肥前唐津藩領、寛永15年(1638)富岡藩領、同18年幕府領、寛文4年(1664)再び富岡藩領、同11年から幕府領のまま明治を向かえる。 天草は関ヶ原の戦い後の翌慶長6年(1601)肥前唐津の寺沢広高の領地となり、慶長9年(1604)袋浦と呼ばれていた漁村に富岡城を築き、この辺りを富岡と改称した。寛永14年(1637)天草・島原の乱後、寺沢広高は領地を没収され、翌15年山崎家治が着任し富岡藩が成立した。天草・島原の乱で壊された城郭や城下町の修復整備が行われ、武家屋敷や足軽屋敷が配置され、一丁目から五丁目の町割りも行われ、城内は一丁目〜二丁目、城外を三丁目〜五丁目とした。 富岡城が築かれ、砂州上に城下町が作られてからは、富岡は天草統治の中心となっていた。 元禄14年(1701)の町明細帳によると富岡町は家数332軒、本百姓59人、畑作り70人、無高百姓91人、漁師112人、鍛冶2人、大工13人、小間物商人8人、酒屋16軒……と記されている。寛延3年(1750)の町明細帳には家数373のうち町家269・漁師家104、人数は1,913とあり、うち切支丹類族310、他に僧尼数55とある。職業別では酒屋16軒、小間物商人19人、桶屋4人、家大工5人、紺屋3人、左官4人、茅屋葺き6人等など。 尚 正保2年(1645)漁業権設定と運上取り立てのため定浦制が敷かれた。富岡町もその一つとなり、漁業では潤ったが、御用船に人を出す水主数も35人と運上銀も決められた。 今回の探訪で高岡一丁目〜三丁目を歩いた。築城当時の町割りや大手門跡の石垣が残されていました。そしてかっての城内の1〜2丁目、そして城外の3丁目には伝統的な様式で建てられた家屋も点在はしていますが、町並みと云える程はない。歴史から考えるともっとあってもよいと思うのですが、この辺りは武家屋敷地で、商人町と異なり建物は質素なものだったのかもしれない。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62 熊本県の地名 平凡社 下中邦彦 1985年 熊本県の歴史散歩 山川出版社 熊本県高等学校社会科研究会 1995年 別冊太陽 日本の町並U 平凡社 湯原公浩 2003年 |
富岡の町並み |
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