大川市小保・榎津の町並み
小保・榎津
地図


榎津の町並み
 大川市は福岡県の南西端に位置し、筑後川下流左岸の平坦な沖積地帯である。
慶長6年(1601)筑後一国を領した田中吉政は柳川に入城し、榎津加賀右衛門を榎津城番とした。元和6年(1620)の田中家断絶後、久留米城に有馬豊氏が入部し、柳川城には立花宗茂が再封され、大川は久留米藩・柳川藩に分けられたまま明治を向かえた。
今回訪ねた榎津と小保は藩境の町で榎津は久留米藩、小保は柳川藩であり、共に筑後川下流左岸にあった。
榎津湊は久留米藩の大阪廻米の重要な積出し港として町場を形成し、早くから造船業が盛んであった。元禄8年(1695)の郡中品々寄によると川幅420間、船数2とある。榎津は筑後川水運の拠点及び筑後・肥前国境、久留米・柳川藩境の要所として、榎津番所・筑後川通船改番所・遠見番所が置かれた。宝永3年(1706)には町数16町36間、家数462・人数2,141・馬25・船数220とある。宝永年間(1704〜11)の「啓忘録抜萃」によると家数418・町数13町50間。榎津は造船が盛んで、文政5年(1821)には船大工101人もいた。また、船大工の技術を生かして指物も盛んであった。
小保も柳川藩の宿駅・河川湊・渡船場として成立。海へ出入りする船を改める津口番所が設けられた。天明6年(1786)小保絵図によると家数86・寺院3・本陣2・下宿2・火番所2とある。安政4年(1857)には浜問屋2・海陸問屋2・石炭問屋3・旅人宿2・小店22・造り酒屋2・油屋7・糀屋2・酢醤油屋2・麦粉小売屋3・菓子屋3がある。江戸時代後期の家数150・人数1,012とある。
国境・藩境の町であったので、この榎津と小保の間では境界争論が度々起こっていて、今でも小保町の浄福寺前に久留米・柳川両藩の境堺石が当時のまま列を成して残っている。
今に残る町並みも、古い家屋が連続して残っているとは行かないが、白漆喰塗込めの商家建物が点在する。代表的な建物は榎津の高橋家住宅・中村住宅・木下家住宅、小保の旧吉原家住宅・緒方家住宅・吉原義朗家住宅・東家住宅など、江戸時代から明治に建てれてた豪壮な住宅が点在している。中でも高橋家住宅は平入りと妻入りが寄り添ったようなL字型の建物が印象的だった。
町並み全体を見ると、妻入り平入りと統一感はないが、大型建物では平入りが多いように思う。
町並み指数   40  
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
  福岡県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター   2004年 
  歴史の町並み再発見  葦書房  読売新聞西部本社   1993年 


榎津の町並み

榎津の町並み

榎津の町並み

榎津の町並み

榎津の高橋家

榎津の町並み

小保の町並み

小保の町並み

小保の町並み

小保の町並み
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