大分市佐賀関町関の町並 
佐賀関町関
地図


佐賀関町関の町並
 大分市佐賀関町関は大分県東部、豊後水道に突出する佐賀関半島の先端部に位置し、四国愛媛県の三崎半島と相対する。
関村の江戸時代は慶長5年(1600)稲葉貞通領、慶長6年(1601)熊本藩加藤清正領、寛永9年(1632)以降熊本藩細川領。村高は「正保郷帳」171石余、「見稲簿」では同高、「天保郷帳」179石余、「旧高旧領」192石余。
天明3年(1783)当地を訪ねた古川古松軒は「西遊雑記」で「佐賀関という所は外浦・内浦にては市中五百軒ばかり、よき船がかりの湊ゆへに日向・大隅より海上往来のふね日和待をする浦にて、淋しからぬ所なり。倡家も数軒見へ待りぬ。当世の風俗にや、浦々島々に至るまでも飯もり・茶たて女などと称して売女有りし所多し」と賑わいぶりを描いている。
熊本藩主の参勤交代の節には、鶴崎(現大分市)より船に乗り、佐賀関に船をまわして、順風を待って伊予へ渡っていた。関村には船番所が置かれ、浦奉行が勤める関上御番所と、10人の下番人が輪番で二人ずつ勤務する上浦番所と下浦番所に分かれていた。この他に遠見(現遠見山)、笹遠見(現日鉱金属佐賀関製錬所構内)にも番所があったが、これらの番所は船舶と積荷の検閲、年貢米輸送船の保護、藩主の参勤交代に際しての送迎などを主な任務とした。
明治12年の関村の家数905・人数5,056、物産は魚類・乾鯣(スルメ)とある。
熊本藩主が参勤交代の際立ち寄る上浦湊は今は佐賀関港となり、その南の下浦湊は佐賀関漁港となっている。
佐賀関港に沿った町並を歩くと、比較的規則正しい碁盤目状の町並となっている。これは漁業集落として自然発生的に生まれたものでない。戦国期に津波によって大きな被害を受けているが、それが影響しているとも思えないので、江戸期か明治期に埋め立てられ計画的に町並が造られたものと思われる。
地元の方に聞くと、今の日本鉱業(当初は久原工業)が佐賀関に工場を設立したのは大正6年だから、少なくともそれより以前に埋め立てられていたのだろうとのことだった。
町並みの様子は漁業集落でなく、港町的な色彩が強く残っていて、一部遊郭があったと思える所もみられた。
板張りの比較的大きな家屋が多く見られ、関アジ・関サバとして高名な漁港を抱えているだけあって、町の通りの名前にも「関あじ・関さば通り」という通りまであった。
町並み指数 40 
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
   大分県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1995年  


佐賀関町関の町並

佐賀関町関の町並

佐賀関町関の町並

佐賀関町関の町並

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佐賀関町関の町並

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