大分市生石港町2丁目は大分県中央部、大分市市街の北西、大分港の西、祓川河口左岸に位置する埋め立て地である。 江戸期の生石村は祓川の上流域から河口部の生石浜までを地域としていた。慶長6年(1601)竹中重利領、寛永11年(1634)日根野吉明領、万治元年(1658)からは松平府内藩領。村高は「正保郷帳」256石余、「天保郷帳」268石5斗余、「旧高旧領」268石余。 生石村では古来より、柞原八幡宮の放生会(神社の神事)が賑やかに行われていた。寛永11年(1634)日根野吉明が府内に入封。放生会の賑わいを見て新市(浜の市)を開いた。この間8月11日から7日間、熊本城下と東・西の新町では日用品以外の販売が禁止され、城下商人の大部分がこの「浜の市」に出店した。この「浜の市」の振興策として、浜の市に限り遊女・芸子屋の営業が許可され、浜の市の遊女として有名になった。また芝居興行も認められ、大坂や京都などからも興行師が来て大いに賑わっていた。 しかし、18世紀後半になると、藩経済体制も確立し、城下の商人が次第に「浜の市」に出店しなくなり寂れて行った。 明治元年では家数129・人数701。明治12年の家数140・人数728、牛馬66・車両31・船数4とある。 古来よりこの辺りを「かんたん」(かんは草かんむりに函、たんは?)と言っている。春日神社の神宮寺浦辺りから祓川の左岸まで位の広い範囲で、今の大分港もかんたん港と言われる。 ところで今回訪ねた、生石港町2丁目は明治17年に築港(旧港)を造るために埋め立てた所で、築港が出来るまでは、生石の浜から目の前に笠結島の景観が広がる風光明媚なところだったが、築港工事でこの美しい景観が壊され陸続きになってしまった。 この埋め立て地には海運倉庫が建ち並び、船問屋が進出してきたが、同時に船員や出船を待つ客相手の売春宿が根を下ろした。これが「かんたん遊郭」の幕開けである。この「かんたん遊郭」も昭和33年に消えるまで約130年間そこそこの寿命だった。最盛期には30軒程の遊郭の貸座敷があり、200人を越える娼妓がいた。 今、旧遊郭跡の生石港町の町並を歩くと、大きな家屋の元貸座敷の建物が数多く残っている。売春防止法の施行から60年程、大きな修理をされることなく残っている建物。何時までも残っていてほしいものだが、名残が残っているのは後少しと思われる。一棟でも保存の対象にならないかと思いながらの探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 大分県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1995年 大分今昔 大分合同新聞社 渡辺克己 2007年 |
生石港町2丁目の町並 |
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