大津町室は熊本平野北東部、阿蘇外輪山西麓の裾に広がる台地が合志台地へと続く付近で、堀川上流の東山川流域に位置する。 訪ねたのは加藤清正が阿蘇と熊本を結ぶ豊後街道の宿駅とした大津宿の町並である。古い町並が残るのは大津町大津よりも熊本側の室の方が多いので室の旧苦竹村についての説明になる。 室は明治9年に塔迫村と苦竹村が合併して成立。 「肥後国誌」に苦竹村は「高九百三石四斗余、里俗苦竹町ト云大津町ノ続」とあり、この辺りは天正(1573〜92)の頃までは広野で苦竹のみが茂っていたという。その後加藤清正が豊後街道を開き、大津宿を仕立てるため、年貢を3年間免除のして農民の移住を進め、慶長2年(1597)頃に町立てが行われ、苦竹村の一部に苦竹町が成立したという。 大津宿(参勤交代の際、最初の宿泊地・休憩地)として機能した大津町に続く苦竹町だが、宿の機能は全て大津町にあったようで、中町には参勤交代時に藩主を泊めるお茶屋や家臣を泊める御客屋も3ヶ所あった。中町には藩の米倉庫も置かれ、商家も多く町家の大半は旅籠屋で、大津手永会所も置かれていた。 苦竹村は「元禄国絵図」に「町村之内苦竹村」とある。「肥後国誌」では高903石余であるが、宝暦10年(1760)の「下ヶ名寄帳」では高493石8斗余と半減している。これは苦竹村から新村が分離されたためと思われる。 寛政7年(1795)写しの大津手永手鑑に人数265、牛馬61とある。 明治15年調べの民業戸数は農業126・水車職12・酒類受売屋5・小間物・煙草屋・素麺屋・絞油職各4等々であった。 今回訪ねた旧豊後街道大津宿の町並は、宿場の中心部だったところは開発が進み、かっての宿場の面影が無かったので、それに続く室を訪ねた。宿場町当時の名残は殆ど残っておらないが、伝統的な様式で建てられた大型家屋が点在していた。ここでは白漆喰塗り込めの商家建物が殆ど見られず、妻入りより平入の家屋が多いように思えた。 建築時期は一部江戸期と思える建物もあったが、殆どは明治から大正・昭和初期に建てられた建物だった。熊本大震災の被害で痛んだ家屋も見られるが早い復旧を願っての探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62 熊本県の地名 平凡社 下中邦彦 1985年 |
室の町並 |
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