直方市殿町の町並み
殿町
地図


殿町の町並

 直方は米・麦中心の農業地帯であったが、江戸後期から石炭の燃料化が活発となり、筑豊炭田が開発されると石炭産業の中心地となった。
関ヶ原の戦い後、筑前国を与えられた黒田長政は福岡藩を成立させると、当地はその支配下に入った。元和9年(1623)長政の死後、当地は四男高政に与えられ、福岡支藩の東蓮寺藩が成立し、陣屋町として整備された。只、延宝3年(1675)東蓮寺藩は直方藩と改名されている。その後一時直方藩が廃藩されたが、元禄元年(1688)黒田長清により直方藩が再興され、長清の居館が妙見山に、その南に侍屋敷・町家などが建設された(新町)。直方藩は享保5年(1720)の長清の死去により廃藩となり福岡藩領に戻された。
陣屋町でなくなり、一時衰退したが、遠賀川の水運を利用した年貢米・諸物資などの運搬、近郊農村の需要を満たすための商業の振興によって在郷町として賑やかさは回復した。
また、参勤交代やその他の交通が多かった長崎街道が、享保21年(1736)に直方の古町・新町を通るように変更されたため、一層賑わいを見せるようになった。寛政期(1789〜1801)の家数220・人数928とあり、文政年間(1818〜30)の書上帳によると、古町115軒・新町102軒・外新町45軒などとなっており、城下町当時の家数が維持されていた。安政4年(1857)の町明細書では家数200・人数1,164とある。
有名な石炭に付いては、はじめは附近の住民が家庭燃料として使っていた程度だったが、福岡・博多に送られるようになり、また、製塩業・鍛冶業にも使用されるようになり需要が拡大した。そして福岡藩の財政維持に大きな役割を果たすようになった。
明治に入ってからも炭鉱開発が進み、三菱・三井の財閥の参入、川船に代わって鉄道輸送になってから急激に発展し、当地は筑豊炭田の中心地をして発展し、同時に鉄工業も発展した。
古い町並を期待して訪ねたが、かって一番賑やかだったと思われる所はアーケードに覆われていて、商店街になっていた。古い町並みはそのアーケードが途切れた殿町辺りに展開する。伝統的な様式の家屋でなく、近代建築や洋風建築が幾つか並ぶ程度の町並みである。
この道は旧長崎街道だが、この直方は宿場町で無かったのと、明治期〜大正期にかけて石炭で賑わっていた為に、街道に面した家屋の殆どが建て替わってしまったのだろう。古い町並みとして見るとチョット寂しい町並みであった。
町並み指数  30  
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
   福岡県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2004年


殿町の医院

殿町の町並

殿町の近代建築

殿町の町並

殿町の町並

殿町の町並
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