多くの観光客が訪れるようになった飫肥だが、殆どは大手門下の駐車場から飫肥城跡の歴史資料館を見てお終いのコースであり、旧城下町に観光客が入らないので、落ち着いて見られる城下町である。 飫肥城下町の本格的な形成は、伊東祐兵が入封した天正年間(1573〜92)後と見られ、江戸初期には既に十文字・大手・鳥居下・前鶴の屋敷地と町屋の本町・唐人町が形成されていた。貞享元年(1684)の大地震、享保3年(1723)の大火災、安永7年(1778)の大風雨、慶応2年(1866)の大火災などがあり、それらの災害の度に建造物の屋根組や外壁が改良されていった。 城跡は町の北側の高台にあり南に傾斜した地形に城下町が形成されている。城跡・振徳堂・八幡神社などを含む地域を十文字、大手門通りで県道辺りまでを大手、八幡神社からの通りと県道辺りまでを鳥居下、国道沿いを本町、本町の南で酒谷川までを前鶴と呼んでいる。 慶応年間(1865〜68)の「飫肥城下古図」によると、酒谷川曲流の北側に飫肥城が山地を背にして平屋の館を構え、十文字や大手門北部には上級藩士が、大手門南部や鳥居下には中級藩士宅多く見られ、町屋(本町)を越した南の前鶴には御用医師や下級藩士と御用職人の家屋が多かった。そして東端は小規模町屋で占められていた。 城下町に相当する酒谷川の湾曲部分の人数は天保5年(1834)で武士・町人合わせて6,676人とある。 今に残る、この飫肥の町割りは江戸初期に出来上がっていたもので、近世城下町がそのまま残ったのである。酒谷川の湾曲部分にある為、近代的な発展にも取り残され、江戸時代から変ったのは本町通が国道222号線となり拡張工事によって、妻入りの重厚な商家の建物がなくなったのが惜しまれること位である。 苔むした石垣、医薬門や腕木門が立ち、白壁の土蔵が覗く武家屋敷の町並は江戸時代そのままに静かに佇んでいた。 宮崎県の歴史散歩 山川出版社 宮崎県高等学校社会科研究会 1990年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61 宮崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1997年 歴史の町並再発見 葦書房 讀賣新聞西部本社 1993年 |
飫肥の藩校 振徳堂 |
飫肥の藩校 振徳堂の長屋門 |
飫肥の町並 |
飫肥の町並 |
飫肥の町並 |
飫肥の町並 |
飫肥の町並 |
飫肥の町並(大手門) |
飫肥の町並 |
飫肥の町並 |