油津湊の江戸時代は飫肥杉の積出湊として賑わい、近年ではマグロ・カツオの遠洋漁業の水揚港として県南部の経済を支えている。 飫肥藩による杉の植林が元和年間(1615〜24)より行われた。飫肥杉はこの地の高温多雨の気象条件と合致し、木材の生育が極めて良好であった。そして飫肥杉はよく水に耐え、弾力性が強いため、船材として最適な木材であった。山岳地帯から切り出された杉材は、酒谷川や広渡川の筏流しで、両川の合流地点から海上にでて梅ヶ浜から大節岬経由で油津湊に運ばれていた。 しかしこのルートは危険かつ手間がかかる経路であった。そこで天和3年(1683)飫肥藩5代藩主伊東祐実は、広渡川河口から油津に通じる堀川の開削を命じた。難工事であったが貞享3年(1686)に完成した。延長15町、幅12〜13間、深さ2〜4尋(1尋は約1.5m)の堀川であった。これは後の飫肥林業の隆盛の基礎となったものである。 江戸時代、この地は平野村であったが平野村分と油津村分に分かれていた。天保5年(1834)の資料で人数は、平野村665・油津村1,364であった。明治初期の「日向地誌」によると、平野村の戸数758・人数3,250であった。758戸のうち農業専従は241戸、商業に従事する者172戸、漁業に従事するもの269戸あり、農間に工業に従事する者は69戸だった。油津村は明治15年に平野村から分かれて油津村として独立した。 飫肥杉を始として木材の積出港として賑わった油津港もトラック輸送が主流になり、筏を組むことがなくなったが、マグロ・カツオなどの遠洋漁業の水揚げ港として活気を呈していた。 今、当時の面影を残す商家の建物やレンガ蔵などが町並を演出している。造り酒屋さんは営業を停止していたが建物は建在だったし、港町らしく船舶工具屋も立派に営業されていた。 宮崎県の歴史散歩 山川出版社 宮崎県高等学校社会科研究会 1990年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61 宮崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1997年 |
油津の町並 |
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