中津市は大分県の北端にあり、北は周防灘に面し、県境の山国川右岸に位置した旧城下町である。 黒田孝高が中津に入ったのは天正15年(1587)のこと、関ヶ原の戦いでの戦功により筑前福岡城へ転じたあと、細川忠興が中津に入った。その後、中津藩の本城は小倉に移ったが、細川忠興は小倉の本城を弟の忠利に譲り、元和6年(1620)中津に隠居して、中津城と城下町造りに努めた。この忠興のころに中津城が整備され、同時に城下町も整備したという。 寛永9年(1632)細川氏に代わって、小笠原長次が中津に入り、享保2年(1717)丹後国宮津より奥平昌成が中津に入り、以後明治維新まで約150年間奥平氏領時代が続いた。 中津城は中津川を背に三角形に設計され、城と城下町共に細川忠興によって構築されたものと考えられ、武家屋敷は概して城の南側に、町家は内堀の東側に配置され、その外側に寺町を置いた。三の丸(現三ノ丁)には家老クラス、殿町・片端町には上級武士、金谷地区(JR日豊線の南側で本町・南ノ丁・中ノ丁など)には下級武士を配置した。そして延享元年(1744)頃には、本丸の北にも北門通・留守居町・船頭町・船場町・鷹部屋などに武家屋敷が確認される。 一方町人町は、大手門の近くから京町・姫路町・古博多町・米町・新博多町・諸町・新魚町・塩町・豊後町などと、城の東側を中心に武家屋敷に挟まれた形になっている。寺町は町人町の東側に置いて多くの寺院を配置した。 「豊前誌」によると城下町が完成したのは寛永〜寛文年間(1624〜73)の30〜40年間と云われ、細川治世で城下町としての形が整い、小笠原氏の初期に完成した。 細川氏時代の城下町は武家屋敷を除いて町家14町枝町6条とある。享保6年(1721)の中津町は5,166人と幕府に報告されているが、延享元年(1744)には59町で4,262人、文化13年(1816)には3,670人と減少しているが、武士の人数は明治2年の「家中士族卒族扶持人共」で6,185人とあるから城下の人口は10,000人前後であったようだ。 黒平氏が入封してからしばしば大火に見舞われたので、黒田氏・細川氏・小笠原氏時代の記録は殆ど焼失してしまっている。 今回訪ねたのは諸町辺りの町並みで、伝統的様式の漆喰白塗り込めの平入り町家が連なっていて、当時の町家の名残を色濃く残している。江戸時代には諸職人の町だったようで、西側には武家屋敷が置かれていた。享保4年(1719)は家数83。文化2年(1805)は家数84とある。新魚町は諸町の南側で、西半分が武家屋敷、東半分が職人町であって、享保4年(1719)家数76。 今回の探訪では諸町と新魚町辺りのみを訪ねる結果になってしまった。資料や地図では三ノ丁や豊後町辺りもリストアップしていたが、全く見るのを忘れてしまい。残念な結果になった。 また、九州地方はLivedoorの地図を参考に掲載しているが、この中津市に限って、正式名でないが、中津市中津の旧城下町時代の町名が記載されているMapFan Webの地図を掲載しました。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 大分県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1995年 歴史の町並み再発見 読売新聞西部本社 読売新聞西部本社 1993年 大分県の歴史散歩 山川出版社 大分県高等学校教育研究会社会部会 1997年 別冊太陽 日本の町並みU 平凡社 湯原公浩 2003年 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |
諸町の町並 |