那覇市は沖縄半島南部に位置する県庁の所在地であり、安里川中流左岸に位置する。 慶長14年(1609)島津侵入により琉球王国時代は終わり、琉球は薩摩藩を直接の管理者として幕藩体制の一環に位置づけられた。だが王国体制は温存され、中国との外交関係も存続し、政治都市・首里、経済都市・那覇として発展していった。 壺屋は王府時代の通称地名「球陽」では壺屋村とも記す。近世はじめは真和志間切牧志村、乾隆4年(1739 元文4年)から泉崎村のうち。王府が窯業の振興を図り、康煕21年(1682 天和2年)美里間切知花村、首里の宝口、那覇の湧田の3ヶ所から陶工を牧志村松尾山の南に集めたことに始まる。秀吉の朝鮮出兵後、薩摩の紹介で朝鮮から陶工が入り定着した。 上焼には丼・油壺・椀・土瓶・茶碗・酒器・香炉など、荒焼には酒甕・水甕・厨子甕・シーサーなど壺屋独特のものであったが、日用品では本土産の陶磁器類に押されがちであった。 大戦時は激戦地となり、微塵もなく破壊されてしまった。大戦終結後、住民の立ち入りが禁止されていた旧那覇市の復興のため、壺屋陶工を中心とした103名の先遣隊が組織され、昭和20年11月10日に壺屋に入植した。陶器や瓦など生活用品を中心に製造をはじめ、戦後の那覇復興の基礎を築いた。 しかし壺屋周辺の人口増加などで、1970年代初め頃から窯の煙による煙害問題が起こり、移転やガスへの切り替え等で今でも多くの工房で活動を続けられている。 東西に走る壺屋やちむん通りの両側に陶器店や工房が点在するし、東ヌ窯・南ヌ窯も残っている。 400mほど続く石畳の道や、表通りからちょっと脇道に入った路地裏など、町並みには昔の面影が色濃く残っている町並であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名沖縄県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2002年 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目の町並 |
壺屋一丁目にあった登り窯(南ヌ窯) |