唐津街道赤間宿は筑前21宿の一つである。筑前福岡藩には27ヶ所の宿場町が設けられていて、長崎街道の属するものを「筑前6宿」それ以外のものを「筑前21宿」と呼んでいた。 中世の赤馬院・赤馬庄・赤馬郷の遺称地である。秀吉は朝鮮出兵のため、文禄元年(1592)名護屋への途中、赤間に滞在している。古来からの、宗像郡の海浜伝いに行く交通路が赤間を通る道に替わり、所謂太閤道が幹線道路となった。江戸期を通じて参勤交代の要路として利用された。 若松から唐津を結ぶ唐津街道の赤間宿は長崎街道木屋瀬宿とお結ぶ往還の交わるところで、宿場機能だけでなく、農工商人が雑居する在郷町としても機能して栄え、街道沿いには旅籠や商店が連なり往来の人々で賑わい、2代藩主の別邸である御茶屋も設けられていた。 元禄5年(1692)人数1,100。寛政期(1789〜1801)の家数220・人数747とある。 慶応元年(1865)には長州落ちした尊攘派の三条実美ら五卿が赤間宿に滞在している。 明治期に入っても、依然として賑わいを見せていたが、明治16年に郡役所が東郷に移転したのをきっかけに、鉄道の駅も遠くに開業され、国道からも外れて赤間の繁栄は東郷に移ってしまった。 今古い町並みは赤間上町の十字路交差点辺りから東に展開している。街道はほぼ一直線で、他の宿場に多く見られる鍵の手や枡型の屈曲はなく、広い道幅の街道が見通しよく延びていて解放感溢れた街道筋を展開している。それも最近になって拡張されたものでないので、往時には随分広い街道筋だったのだろう。 白漆喰を塗込めた居蔵造りで甲造りの家屋が多く点在している。赤間宿の大きな特徴だ。 近畿地方や瀬戸内に多い、平入りで白漆喰塗込めの虫籠窓や袖壁・を備えた家は見なかったように思う。ここまでは伝播しなかったのだろう。妻入りの入母屋造りで白漆喰を塗りまわした居蔵造りの家屋だ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 福岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2004年 日本の町並みU 平凡社 江田修司 2003年 |
赤間4丁目の町並 |
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