加世田市武田は薩摩半島の南西部に位置し、鹿児島市街から南西約40kmの地点にある。 鹿児島薩摩藩では武士が全人口の30パーセントを超え、特に加世田郷は40パーセント以上で、他郷と比べて多くの武士が存在した。加世田郷の武士の戸数は約900戸・人口にして約5500人程と云われた。 加世田郷は鹿児島藩直轄領で、別府城(加世田城)跡近くに地頭仮屋が置かれ、周りに武家屋敷を集めた麓集落が形成された。 地頭仮屋は最初別府城内にあったが、享保12年(1727)に城の西方の現在の加世田幼稚園敷地に移された。麓集落は武田村のうち現在の武田北端部から加世田麓町一帯に形成されていた。加世田麓に居住した武士の戸数は240〜250戸とみられ、他の600余戸は全て郷内の在(農村)に住み農民と雑居したのである。これを在家郷士とよんだ。 幕末の加世田再撰史によると、安永年間以前の戸口は3,957軒・25,506人で、内訳は武士(衆中)861軒・5,450人、衆中下人78・501人、百姓2,154軒・13,797人、浦人752軒・4,958人、野町42軒・331人、その他70軒・469人とある。 他郷同様、加世田郷の麓武士や在家郷士も微禄か無禄の者が多く、生活は大変苦しかった。そのため武士の内職として鍛冶屋・大工・染物業を兼ねるものが多く、代表的なものに鍛冶屋があり、加世田鎌などの名声を残している。 以上は加世田郷の様子であるが、訪ねた武田村について述べると、別府城の近くに麓集落が形成されていて、加世田名勝志では戸口243軒(郷士7軒・百姓236軒)・人躰1,519人(郷士48・百姓1,471)とある。 加世田の麓集落は全く予備知識なしで、町並み探索の途中に泊まった南さつま市加世田のホテルで、南さつま市の観光案内地図を何気なく見ていて、武家屋敷があることを見つけて訪ねたもの。 石積み、手入れされた生垣、門構えの大きな屋敷の町並が続いているのには驚いた町並み探訪だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 鹿児島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1998年 |
加世田武田の町並 |
加世田武田の町並 |
加世田武田の旧武家屋敷、こんな立派なのが個人の住居 |
加世田武田の町並 |
加世田武田の町並 |
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加世田武田の町並 |
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加世田武田の町並 |
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