南さつま市坊津町坊の町並み
坊津町坊
地図


坊津町坊の町並

 南さつま市坊津町坊は、薩摩半島の南西端に位置し東シナ海に面している。天然の良港で古代には遣唐使の寄港地ともなり、上皇の御願所となった一乗院もあり、大陸航路の要衝の港となっていた。
中世に入っても南蛮貿易で栄え、多くの南蛮船が寄港している。近世に入っても島津氏の南方経営によって坊津には幾多の海商の活躍が目立つ。中でも慶長5年(1600)の朝鮮侵略の際の捕虜茅国科を中国に送還し、日明貿易再開の約を果たした島原宗安は天正12年(1584)島津氏から朱印状を受けた海商である。その他、久志の中村某、泊の山下志摩丞などもフィリッピンなどの南方に渡航している。中国からも商人が来るようになり、諸外国の船も来航している。
江戸期には薩摩藩の外城制度で旧坊津町域でも久志・秋目・坊・泊の4つの外城に分けられた。加世田郷などは多くの村や浦数が多いのにもかかわらず1外城であるの対して対照的である。それは海の護りや海運・貿易の面で重要な位置にあったためと考えられている。
徳川幕府は寛永年間(1624〜44)の鎖国令によって諸外国の船の長崎以外への入港を禁じた。その後も薩摩では坊津を中心に密貿易が続いた。当時の交易品は織物・薬品・書籍・陶器・香料などが主なものであった。
享保期(1716〜36)の密貿易の一斉取締により、貿易港としての地位を断たれ、漁業が主業となる。この取締りを当地では「享保の唐物崩れ」といい、19人の豪商たちが逃散したが、しかしその後も遭難などを理由に明船はひそかに入港し、貿易を行っていた。
漁業を主体にした港になり、享和・文化期(1801〜18)にはカツオ漁の最盛期になっている。カツオ漁は明治に入ってからも発展を続け、現在でもカツオ漁の基地となっている。
訪ねた当日は豪雨の最中。国道沿いで30分ほど雨を避けてからの探訪になった。密貿易で繁栄していた頃の名残は殆ど残っていないようだが、密貿易屋敷と云われる家屋が残っていた。
町中を歩くと急斜面の路地道に板囲いの民家が点在する。密貿易後に発展したカツオ漁業で潤った商家の家だろうと思われる。
急傾斜の路地道を滑らないよう気を付けながら歩いたが、下に見える港も天気が良ければ綺麗だろうなと、密貿易で潤っていた当時の家や海・港・船を想像しながら歩いた。
町並み指数  30  
参考文献                              
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
   鹿児島県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1998年
   別冊太陽 日本の町並みU  平凡社 湯原公浩  2003年  


坊津町坊の町並

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