玖珠町森は大分県の北西部、耶馬渓の南、玖珠盆地の北部に位置する。 関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)来島(のち久留島と改姓)康親の入封によって成立した森藩の陣屋所在地。陣屋は角牟礼山麓(現三島公園)に建てられ、陣屋の周りの正面、西方、北東に武家屋敷を、その南に町人町を形成したという。それ以来幕末まで260余年領主が代わることなく支配を続けた。 江戸初期の正保年間(1644〜48)の「正保絵図」には当時すでに町の骨格が形成されていることが伺える。陣屋を中心として約200m四方程度の小じんまりした陣屋町を作っていたと思われる。 初代久留島康親の入封当時は深い林地で、僅かに十数軒の茅屋があったに過ぎなかったが、以来玖珠郡の行政・経済の中心地として発展した。明治27年の戸数1,060・人口5,540とある。 玖珠郡の中心都市だった森陣屋町も、昭和9年に久留米ー大分間の久大本線の開通により、町の賑わいは次第に南の帆足や塚脇地区に移り、旧陣屋町森は衰退していった。 この町も大火度々見舞われている。享保7年(1722)400戸が焼けその後も、天保12年(1841)・弘化3年(1846)・安政元年(1854)・明治16年(1883)と大火で多くの家屋が焼失した。今見られる町並みの古い家屋でも明治中期以降に建てたれたのが一番古いのである。漆喰塗り込めで防火性能を向上させた、伝統的な様式の家屋が多く残っている。 明治初期の写真を見ると屋根は竹瓦で葺かれている。防火性能が悪く延焼が避けられ無いので、漆喰塗り込めで、土蔵造りの家屋が多く造られたのが今に残っているようだ。 今、古い町並みは保存活動が活発に行われているようで、通りに面した多くの家が整備されて綺麗な外観を呈している。 そんな中に久留島資料館と看板をあげた建物があった。この家は醸造業・金融業を営んでいた「かね十」の屋号を持つ荒木家本家の住居であったものを資料館として公開しているもの。この隣に建っているのは「粕屋」と云う屋号の呉服屋の建物。この並んだ二つの建物が森町の景観を最高に盛り上げている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 大分県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1995年 歴史の町並み再発見 読売新聞西部本社 読売新聞西部本社 1993年 大分県の歴史散歩 山川出版社 大分県高等学校教育研究会社会部会 1997年 |
森の町並み |
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